巽への移転
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 04:04 UTC 版)
「大阪府立勝山高等学校」の記事における「巽への移転」の解説
交通量の増加により、1960年代初頭には学校北側を走る勝山通の騒音公害が目立つようになった。また他校と比較して運動場が狭く、当時の全日制普通科府立高校で運動場面積が一番狭かったことも判明した。 学校側は隣接地の民家を買収して校地拡張することを検討し、大阪府に陳情した。しかし大阪府側は学校移転を打診した。学校側が地元住民の意見を聴いたところ、「移転する場合は生野区内での移転を希望する」という声が多かったことから、生野区内で移転先を探すことにし、生野区巽矢柄町(現在地)を移転先として選定した。 一方、「勝山通から離れた校地南側に中層の新校舎を建て替えることで騒音の軽減になり、また運動場拡張にもなる」「巽はバスしか交通手段がないから通学が不便になる」として勝山での建て替えを希望する意見もあった。しかし「(学校移転前後の)1965年前後に地下鉄が巽まで延伸する」と当時見込まれていたことなどから、巽への移転が決まった。 1962年に巽の新敷地の買収が完了した。この間に大阪府知事選挙があった関係で校舎建設予算は1963年度9月補正予算を待たねばならず、1965年1月より新校舎建設工事が開始された。1966年2月に第1期工事が完了し、同年3月下旬に移転作業を実施した。1966年4月より現在地での教育活動を開始した。 移転当初、バスが唯一の公共交通手段だったため、満員でバスに乗れずに遅刻する生徒が目立った。また通勤困難を理由に他校への転勤希望を出す教職員も増加した。学校やPTAは当時、バスの増発を陳情している。 巽の新校舎は1学年8学級規模で設計された。しかし1970年代・1980年代の高校生急増期への対策として、特別教室の普通教室への転用などで1学年12学級の受け入れが可能となるように改造された。
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