巫覡論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 06:38 UTC 版)
吉本は、ある個人が、じぶんにとってじぶんを〈他者〉に押しやり、それを他の個人と関係づけることによって初めて、ある個人が他の個人に〈知られる〉という水準を獲得すると述べている。吉本によると、芥川龍之介が自殺の1ヶ月前に書いた『歯車』の主人公が、「第二の僕」(ドッペルゲンガー)に出会うのは、この異常でない一般の心の相互規定性としてありえ、それでいて主人公は死の想念が絶えずあり、入眠状態(もうろう状態)で心身が衰弱していたという。『遠野物語拾遺』にもこういった「第二の僕」に出会う〈離魂譚〉があり、同じようにもうろうとした意識があり〈死〉の微候とむすびつけられているが、『歯車』の「第二の僕」が親しい個人である〈他者〉を対象にし離魂体験があまり明瞭でないのに対して、『遠野物語拾遺』の「第二の僕」は村落共同体の共同幻想そのものを対象にし離魂体験がはっきりと描かれている。この〈離魂譚〉がやや高度化したのが、〈狐〉などの象徴を媒介にして村落の共同幻想を入眠状態で創り出す〈いづな使い〉の話である。この段階になると、はっきりと自分の幻覚を意図的に得て、村落の共同幻想に集中同化させる能力が職業として分化している。〈いづな使い〉が能力を発揮するには、1.〈狐〉が霊性のある動物であるという伝承が村民に流布され、2.生誕や死や自然条件に左右される食料の獲得などが村民たちの意志や努力ではどうにもできない〈彼岸〉にあると信じられているという、2つの条件が必要である。さらに、この〈狐〉が〈性〉的な対象である〈女〉に化けていたという〈狐化け〉の話が『遠野物語』や『遠野物語拾遺』にたくさん存在するが、吉本によれば〈狐〉は共同幻想の象徴であり、〈女〉は男女の〈性〉関係を基盤とする対幻想の象徴であるという。吉本は、村落の男女の対幻想は、あるばあい村落の共同幻想の象徴でありうるが、にもかかわらず対幻想は消滅することによってしか共同幻想に転化しない、と述べている
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