巡礼と聖別
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 10:23 UTC 版)
ローマは当時のイングランド人にとって聖地であり、ローマへの巡礼は王たる者の悲願であった。しかしその道は遠く、エゼルウルフの父エグバートは旅の途中で落命していた。エゼルウルフも父にならいローマへの巡礼を決意した。フランク王国に巡礼のため国内を通過する要望を願い入れ、エゼルウルフは父がなしえなかった偉業を成した。当時のヨーロッパ大陸の人びとにとっては、辺境の島国の王が巡礼にやって来たことは一大ニュースとなった。教皇ベネディクト3世の伝記作家によれば、エゼルウルフのローマ到着は「たいへんな群衆で迎えられ」、「4ライブラの、輝くばかりの黄金の王冠、…金で縁取られた美しい剣、4客の銀箔の器、メダル装飾が施された純白の絹のシャツ、金糸の編み込まれた大きなヴェール」を献上し「それに劣らない贅沢な品々が下賜された」という。これによってエゼルウルフと、彼の王国ウェセックスはイングランドのみならず、西ヨーロッパ全域に知れ渡った。 文明か野蛮かの差は、当時はキリスト教への信仰への度合いで決まった。それゆえにエゼルウルフは、即位や結婚でキリスト教式の方法をとった。現在もイギリスで王が戴冠するさい、カンタベリー大主教が聖油を額などに注ぐ聖別を行う。エゼルウルフは839年に王位についたとき、フランク王国の儀礼にならって導入した。さらに2人目の王妃にフランクからユーディスを迎えた結婚式でも聖別を行った。このことは王妃の地位を高め、王妃の役割が礼拝・典礼において王のそれを補完するものとなった。
※この「巡礼と聖別」の解説は、「エゼルウルフ」の解説の一部です。
「巡礼と聖別」を含む「エゼルウルフ」の記事については、「エゼルウルフ」の概要を参照ください。
- 巡礼と聖別のページへのリンク