州での法務職期間
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/09 05:50 UTC 版)
「ジョン・クリッテンデン」の記事における「州での法務職期間」の解説
クリッテンデンは連邦上院議員を退いた後、州都フランクフォートに移住し、多くの顧客を引き受け、州政界の中心に近づいていった。フランクフォートに移り住んでからの顧客には元大統領のジェームズ・マディソン、ジェームズ・モンロー、後の副大統領リチャード・メンター・ジョンソン、後の州知事、ジェームズ・ターナー・モアヘッド、ジョン・ブレシット、ロバート・P・レッチャーがいた。この期間、彼はヘンリー・クレイと協力し、ロバート・C・ウィックリフの息子チャールズ・ウィックリフの弁護を引き受けた。ウィックリフは「Kentucky Gazette」紙の編集人を殺害した疑いで訴追されていた。クリッテンデンは、殺害が自衛のためであると主張し、クレイは情熱的な最終弁論を行った。陪審は彼らの答弁書提出後まもなく「無罪」を評決した。 1820年1月、クリッテンデンとジョン・ローワンはテネシー州とケンタッキー州の境界線紛争の解決を手助けするのに選ばれた。境界線は北緯36度30分の緯線に沿って引かれるべきであった。しかしながら調査を行ったトーマス・ウォーカー博士は誤って南寄りに線を引いた。クリッテンデンとローワンは「ウォーカー・ライン」をカンバーランド山地からテネシー川までの境界のまま残し、テネシー州はテネシー川西の誤りを補い、または境界を北緯36度30分にリセットするよう提案した。テネシー州の委員は両者の提案を拒絶し、代わりに州同士の既存の払い下げ地を保持する互換的な協定が存在する状態で、ウォーカー・ラインはテネシー川の東までとし、西の部分をもっと短くするよう申し入れた。クリッテンデンは申し出を受け入れるつもりであったが、ローワンは同意しなかった。ケンタッキー州の委員はその件を仲裁に提出するよう提案したが、テネシー州側は拒否した。総会への報告でクリッテンデンは、ケンタッキー州がテネシー州の提案を受け入れるよう勧告した。委員達はクリッテンデンのレポートによって動揺した。そして、契約覚書は1820年2月2日に調印された。 クリッテンデンは1823年にトランシルヴァニア大学の理事に選出されたが、これはヘンリー・クレイの応援活動を行うためであった。一年後に大学の教授陣は法学の名誉博士号を授与した。また、クリッテンデンはフランクフォートのケンタッキー・セミナリーの理事および代理人を務めた。彼は1824年の大統領選においてクレイの支持のため自らの影響力を行使し、クレイが選挙戦から脱落するまで続けられた。その後はアンドリュー・ジャクソンを支持したが、ジョン・クィンシー・アダムズが選出された場合、おそらくクレイを国務長官に指名するだろうことを知ってアダムズの支持に転じた。批評家はアダムズのクレイに対する申し入れを「裏取引」として非難したが、結果はアダムズが当選した。クレイは国務長官に就任するとき、クリッテンデンを第二合衆国銀行のケンタッキー州主任顧問の席に勧める用意をしていたが、銀行は彼の就任を選択しなかった。
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