川田古墳群を取り巻く歴史的環境
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/30 06:00 UTC 版)
「川田古墳群」の記事における「川田古墳群を取り巻く歴史的環境」の解説
能登周辺の前方後方墳で、段築は柳田布尾山古墳、雨の宮1号墳、川田ソウ山1号墳に認められる。川田ソウ山1号墳は段築・墳裾平坦面・上段くびれ部の特徴からみて雨の宮1号墳に近い墳丘型式ということができ、築造年代も前後するものと推定される。 川田ソウ山1号墳造営の前段階において、能登半島では大規模古墳を主墳とする小田中古墳群や雨の宮古墳群などの形成が始まっており、能登の政治勢力の中枢が地溝帯中部域に集中化しつつあった。邑知沖積地の中央部で農業生産力の最も高い地域であり、外浦・内浦の海運拠点とも等距離の位置に当たる。そして北部能登への接触にも便利な二宮川流域から西湾岸へのコースを掌握する地域でもあった。ソウ山1号墳の被葬者はおそらく能登の政治勢力の一翼を担うものであり、その出自として挙げられるのは大槻11号墳・国分尼塚1号墳・小田中亀塚古墳・雨の宮1号墳の被葬者の近親者もしくはこれを祖とする一族の長と考えられる。 川田ソウ山1号墳築造後、約1世紀の空白期間を経て後期群集墳の形成が始まる。少なくとも川田ソウ山支群・川田七ノ宮支群・川田向山A~D支群では5世紀第3四半期から6世紀後半まで途切れることなく築造されている。これらの支群では埋葬施設に石材を使用した形跡はみられない。能登の小規模墳に横穴式石室が普及するのは6世紀第4四半期からであり、これらの支群は横穴式石室が一般化する以前の群集墳ということができ、6世紀後半のうちに消長するものといえる。
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