小豆坂の戦い後の織田と今川とは? わかりやすく解説

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小豆坂の戦い後の織田と今川

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 14:22 UTC 版)

小豆坂の戦い」の記事における「小豆坂の戦い後の織田と今川」の解説

第二次合戦において今川氏松平氏連合勝利を収めはしたが、この合戦のあった天文17年1548年)に松平広忠死亡してしまい、松平氏次期当主である竹千代織田氏のもとに人質としてある以上、岡崎城無主の状態になってしまった。そこで翌天文18年1549年)、太原雪斎人質交換によって竹千代身柄今川氏保護下に奪還することをねらい、11月8日11月26日)から9日11月27日)にかけて今川軍松平軍を率いて安祥城攻略、信広を捕虜として、竹千代交換する交渉成功した今川氏そのまま竹千代駿府引き取って松平氏を完全に保護下に置き、西三河拠点となる岡崎城今川氏派遣した代官置いた一方安祥城失陥により織田氏三河進出挫折終わり、さらに天文20年1551年)には織田信秀病没、後を継いだ信長とその弟・信勝(後の織田信行)間で内紛起こった。この結果尾張三河国境地帯における織田氏勢力動揺し信秀死に前後して鳴海城笠寺城(それぞれ名古屋市緑区南区)を守る山口氏今川方に投降し逆に今川氏勢力尾張側に食い込むこととなった。 やがて、弟との争い乗り切った織田信長尾張統一進めて力をつけ笠寺奪還、さらに鳴海城周辺に砦を築き鳴海城に篭った今川方の武将岡部元信攻囲するに至る。これに対し永禄3年1560年)に今川義元大軍をもって尾張侵攻した鳴海城をはじめ孤立した今川方の勢力救援し国境地帯争い劣勢から巻き返そうとした。この戦役において勃発した合戦桶狭間の戦いであり、主将義元失った今川軍三河から急速に勢力後退させ、かわって松平元康徳川家康)に率いられ松平氏復興することになる。まもなく松平氏織田氏同盟清洲同盟)を結んだため、長らく続いた尾張三河国境地帯の争い沈静化ていった

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