富と信仰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/04 19:32 UTC 版)
「キリスト教における富」の記事における「富と信仰」の解説
富と信仰に関する考えは様々な方向からの考えが挙げられている。例えば環境学・社会倫理学者のジョン・B・コブ(英語版)は、「西洋を支配し、そして西洋を越えて東洋の大部分をも支配するようになっている経済主義」は伝統的なキリスト教の教理とは正反対であると論じた。「人は神とマモン(富)の両方に仕えることはできない」〔ママ〕、コブはこのイエスの教え〔マタイ 6:24〕を引き合いに出した上で、「西洋社会が富に仕えるように組織されている」のは明らかであり、したがって西洋では富は神に優越しているのだ、と断じた。マホーニー (Jack Mahoney) は、マルコによる福音書 10:23-27のイエスのことばについて、「裕福な人々や何不自由なく暮らしている人々でさえもしきりに不安や良心の呵責を感じるというくらいにまで、幾世紀にも亘ってかくも深くキリスト教社会に刻み付けられているのだ」と述べる。 極論の一つは、富や物質主義は避けるべき悪、さらには戦うべき悪であるとする。その対極にあるものは、繁栄と幸福は神の祝福であるとする見解である。信徒の中には、富と貧困についてキリスト教の教えを正しく理解するためには、広い視野で考えることが必要で、蓄財は人生の中心ではなく、むしろ「善良な生活」を育む資源だと論ずる者もいる。デイヴィッド・ミラー (David Miller) は、プロテスタントの間によくある富に対しての3つの立場を説明した。この説明によると、プロテスタントは富について、(1) 信仰に対する罪過、(2) 信仰の妨げ、(3) 信仰の結果、と様々な考え方を持つ。
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