宮城野の範囲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 16:54 UTC 版)
宮城野という地名の初出は平安時代の勅撰和歌集『古今和歌集』とされる。以下がその歌である。 宮城野のもとあらの小萩つゆを重み風をまつごと君をこそまて(よみ人しらず) みさぶらひみかさと申せ宮城野の木の下露は雨にまされり(東歌) ただ、この頃の宮城野の位置、範囲については明確ではない。宮城野は陸奥国府の多賀城があった宮城郡に由来し、広い範囲を漠然と指していたとも考えられている。後に仙台城の城下町が建設される地域も、海辺付近も宮城野だったと言われている。古代の幹線道路の一つである東山道は、陸奥国分寺の辺りを通り、多賀城に至っていて、この道沿いに歌枕が点在していた。江戸時代になって、仙台城城下町の東側、陸奥国分寺の北側の野原が宮城野と比定されるようになった。正保年間(1645年から1648年)の仙台城下絵図に宮城野が見られる。 また、この陸奥国分寺付近は国分原(こくぶがはら)とも言われていた。鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』によれば、鎌倉政権と奥州藤原氏が争った、1189年(文治5年)の奥州合戦で、藤原泰衡は源頼朝の軍勢を迎え撃つために国分原鞭楯に本陣を置いたという。江戸時代の仙台藩の地誌『封内風土記』は、国分原と宮城野を同地とする。
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