宝瓶口
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/21 02:17 UTC 版)
「宝瓶口」は玉塁山の断崖に切り抜かれた狭い導水路で、その名の通り瓶の首のように細く、ここで灌江から用水路へ水が導かれ、ここから入れない余った水は 120 m 離れた飛沙堰を乗り越え本流へ排出される。古代の灌県城の西門・玉塁関の下にあり、都江堰の建設と同時に作られた。宝瓶口は上が広く下が狭く、頂上部の幅は 28.9 m 、底部の幅は 14.3 m 。灌江から運河へ向かう部分の幅は 70 m あるが、ここで瓶の口のようにせまくなることからこの名がついた。 宝瓶口も飛沙堰と同じく、運河へ入る水の量を調節する。春季、灌江から宝瓶口を通過した水は成都平原の広大な水田を潤す。しかし増水時には、宝瓶口の手前の飛沙堰を水が乗り越えてしまうため宝瓶口に達する前に水が本流に流れてしまい、さらに宝瓶口が入る水の量を制限するため、灌漑路の沿岸では洪水にならない。宝瓶口より先では、運河は西北が高く東南が低くなるように作られているので水は自然に東南の平野の方へ流れるようになっている。 宝瓶口の左側の山の崖には、一市尺ごとに数十本の目盛(水則)が刻まれ、これは古代中国の現存最古の水位標識である。成都平原で次々水路が作られ灌漑対象地域の拡大により、必要な水量は時代ごとに増加していった。宋の時代には目盛りは10本しかなく、下から6本目の水量で農業用水は足りた。元の時代には9本目が最善とされ、それより水量が多くても少なくても成都平原は困窮した。清の時代には目盛りの16本目までの大洪水が記録されたが、今日は目盛り数は24本に増え、春の農業用水には14本目までの水量が必要である。 宝瓶口の右側の山は、運河開削で左側の山から切り離されてしまったため「離堆」の名がある。山の上には李冰を祀る伏龍観(別名:老王廟)がある。宝瓶口の両側の岩盤は2000年の間に急流で次第に削られ、大きな空洞ができてしまったため、1965年と1970年に離堆が補修された。
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