官が主導・保護した郷学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 04:24 UTC 版)
藩主や代官が庶民教育のために開いたり、あるいは民間有志が設立して領主が保護・監督した郷学。 1668年(寛文8年)に岡山藩主池田光政が領内に123か所の手習所を開いた例が古く、また代表的である。この手習所はのちに閑谷学校に統合された。 18世紀末、幕府代官早川八郎左衛門正紀は、任地に3つの郷校(美作久世の典学館、備中笠岡の敬業館、武蔵久喜の遷善館)を開設した。久世の典学館は土地や建物とその維持費を地域の村役人や富農からの寄付によってまかない、『六諭衍義』や早川自身の著書『條教説話』などを早川本人や代官所雇用の儒者によって庶民に講釈した。 上野国伊勢崎藩領では、享和3年(1803年)に伊与久村(現在の伊勢崎市境伊与久)の豪農宮崎有成ら有志によって庶民教育機関として五惇堂が設立された。文化5年(1808年)には藩が五惇堂を公認し、敷地や建物にかかる年貢を免除し、講師を派遣するなどの支援を行った。五惇堂に続き伊勢崎領では多くの郷学が組織されており、「官民協力の郷学」と評される。 これらの郷学の教育は、社会的な危機の深化に対応するため、道徳の高揚や農業の奨励など学問を通して一般民衆に封建的な陶冶を施すことが主目的であったと評価される。郷学では基礎的な漢学を主とし、読み書きにも力が注がれた。
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