子どもへの思いと正式離婚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 06:13 UTC 版)
「中城ふみ子」の記事における「子どもへの思いと正式離婚」の解説
夫・中城博との別居生活の中で、大森卓への激しい恋の他、石川一遼、高橋豊との出会いもあったが、夫と別れ3人の子を育てる母としての気持ちを忘れることは無かった。 悲しみの結実(みのり)の如き子を抱きてその重たさは限りもあらぬ 大森卓との出会いはふみ子に大きな影響を与えたが、ふみ子自身も短歌への精進を怠らなかった。東京家政学院時代、恩師の池田亀鑑から短歌の他に源氏物語、万葉集を学んでいたが、結婚後も万葉集を読むなど古典学習も継続していた。そして短歌の結社参加も、これまでの「新墾」、「山脈」に加え、1951年からは女性歌人による「女人短歌」にも参加する。実力をめきめきとつけてきたふみ子の、母として子どもを詠んだ句は評価が高い。 ところで夫・博との別居後、ふみ子の父母は1950年8月から呉服店を始めていた。ふみ子は2名のお手伝いさんとともに得意の料理の腕を振るい、従業員やその家族などの分も含む約30名の食事作りに明け暮れた。当時ふみ子が詠んだ短歌の中には、呉服店の食事作りに励み、呉服店で働く店員らの情景など日常生活を詠んだものも見られる。 別居中の夫・中城博はしばらくの間、帯広で生活していたが、やがて札幌へと帰った。ふみ子との離婚条件が中城家との間で話し合われ、結局話し合いがまとまり、1951年10月2日に正式に離婚が成立する。離婚の条件は末っ子の潔を中城家に引き渡すことであった。潔が別夫の元で暮らすようになり、ふみ子は長男孝、長女雪子の2人の子どもと暮らすようになる。なお、離婚後もふみ子は旧姓の野江に戻ることは無く中城姓で通した。姓を戻さなかったことについてふみ子は「現在の幸も不幸も結婚生活から発端してゐるのであるから、中城といふ姓に愛着を捨て切れない」と語っていたという。
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