婚姻の取り消し
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/29 09:01 UTC 版)
「オンフロワ4世・ド・トロン」の記事における「婚姻の取り消し」の解説
1190年、シビーユとその2人の娘が死去した時、オンフロワ4世とイザベルの夫妻はアッコの十字軍陣営におり、アイユーブ朝軍に包囲されていた(アッコ包囲戦)。エルサレム帰属のほとんどは、イザベルが王国の正統な継承者であると見なしており、ギー・ド・リュジニャンは妻子の死により王位請求権を失ったと考えていた。しかし同時に、彼らはオンフロワ4世もエルサレム王として不適格だと考えていた。何よりも、1186年に彼が自分で王位をシビーユとギー・ド・リュジニャンに譲り渡した行為が後を引いていた。エルサレム貴族たちは、オンフロワ4世よりも、十字軍の指導者の一人でサラーフッディーンからティルスを守り抜いたモンフェッラート侯コンラートに期待を寄せるようになっていた。 イザベルの継父バリアン・ディブランも、コンラートの支持者の一人だった。バリアン・ディブランとその取り巻きは、イザベルとオンフロワ4世の婚姻を無効とする方向を目指すことにした。夫婦の間には、まだ子どもが生まれていなかった。同時代のItinerarium Regis Ricardiでは、1190年ごろのオンフロワ4世「男と言うよりも女のようで、人付き合いは物静かで酷い吃音が」あったと描写されている。イザベルの母マリア・コムネナ(英語版)はイザベルの天幕に入って、彼女に夫のもとから離れるよう強いた。 マリア・コムネナは、イザベルが8歳の時、ボードゥアン4世が彼女にオンフロワ4世と結婚するよう強制したのだと主張した。これを受け、教皇特使のピサ大司教ウバルド・ランフランキ(英語版)とボーヴェ司教フィリップ・ド・ドルー(英語版)が、オンフロワ4世とイザベルの婚姻の取り消しを宣言した。しかし教皇インノケンティウス3世が調査したところ、取り消しの儀に出席していた騎士の一団が、イザベルとオンフロワ4世の双方が取り消しに抗議していたと証言した。カンタベリー大司教ボールドウィン・オブ・フォード(英語版)は、死の床でイザベルとコンラートの結婚は姦通にあたるとしてこれを禁止した。しかしこれを無視して、コンラートは190年11月24日にイザベルと結婚した。
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