女流詩人とピナール・デル・リオ
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「ドゥルセ・マリア・ロイナス」の記事における「女流詩人とピナール・デル・リオ」の解説
60年代、ピナール・デル・リオのピアニスト、ホセ・アントニオ・マルティネス・デ・オサバ(スペイン語版)は、ドゥルセ・マリア・ロイナスの生涯に興味を持ち始め、女流詩人の最期について調べ始めた。 ある人は夫のパブロ・アルバレス・デ・カニャスと一緒に海外に行ったと言い、まだハバナに住んでいると言った人もいたが、実際はどうだったのか正確には知らなかった。 一部の人は彼女が死んだと主張した。 粘り強い調査の後、彼は1969年にロイナスの行方を知ることができた。多くの文通と定期的な訪問を通じて、彼らは素晴らしい友情を築いた。これは、ブエルタバホの土地と作家の最初のコンタクトだった。 しかし、ロイナスとピナール・デル・リオの繋がりを強いものにしたのは、歴史学者のアルド・マルティネス・マロ(スペイン語版)であった。彼は1971年に彼女と出会い、多くの手紙をやりとりし、それらは後に書簡集Cartas que no se extraviaronとして編集された。 ピナール・デル・リオで彼女は兄弟と同じように多くの認識を受けた。 1990年に、彼女は、貴重な本や初版本、さらに著者達の献辞が書いてある本が多く含まれた彼女自身の蔵書を寄贈した。その後、彼女はピナール・デル・リオの街にCentro de Promoción y Desarrollo de la Literatura Hermanos Loynaz「ロイナス兄弟文学発展促進センター」を設立した。 また、この県では、彼女の人生と作品に関するイベロアメリカ会議がほぼ毎年開催された。
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