女流画家ミュンター
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/11 15:28 UTC 版)
「ガブリエレ・ミュンター」の記事における「女流画家ミュンター」の解説
ミュンターの時代、女性に対しては公立アカデミーや官展はまだ門戸を閉ざしていた。しかし市民社会が興隆した18世紀から19世紀、ブルジョワ階級を中心に子女に対する教育熱が高まる中、娘にも文化的教養を持たせようとし始めて以来、芸術に興味を持つ女性も増え、女性のための芸術教育機関も増えていた。青年期のミュンターが生きた20世紀の初頭には、女流芸術家も稀ではなくなっていた。元来、女流芸術家にとってその活動は、旧社会の因習を打ち破るというニュアンスが少なからずあったが、とりわけ表現主義の時代には、多くの女流画家がニーチェやイプセンの新しい人間観・女性観に影響を受け、伝統やブルジョワジーのモラルが規定してきた「女性らしさ」から脱却した新たな価値観を求め、社会のアヴァンギャルドとしての自覚をいっそう強めていた。こうした背景の中ミュンターは、デュッセルドルフやミュンヘンの女子芸術学校に満足せず、「ファランクス」の芸術学校の門を叩きただ一人の女生徒として入学し、カンディンスキーと大胆に恋愛した。しかし芸術面での彼女は、そうした旺盛な向上心や大きな恋愛とは好対照に、「傾聴」や「黙想」といった作品タイトルにも示されるように内面的で思索的であった。このことは、同じ青騎士仲間の女流画家ヴェレフキンが「来たるべき芸術とは、感情を揺り動かす芸術だ」と語って画面に直接的に自己を表現しようとしていた点と比較される。
※この「女流画家ミュンター」の解説は、「ガブリエレ・ミュンター」の解説の一部です。
「女流画家ミュンター」を含む「ガブリエレ・ミュンター」の記事については、「ガブリエレ・ミュンター」の概要を参照ください。
- 女流画家ミュンターのページへのリンク