天文方の各家
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渋川家 渋川春海の改暦の功績により、貞享元年(1684年)天文方となる。養子縁組を繰り返しながらも幕末まで継承された。 渋川春海-昔尹-敬尹-敬也-則休-光洪-正清-正陽-景佑-(敬直)-佑賢-敬典 猪飼家 御徒であった猪飼正一(豊次郎)が享保元年(1716年)渋川敬尹の暦作御用手伝となり、元文元年(1736年)天文方になる。寛保元年(1741年)に正一が没すると後継者なく、1代限りとなる。 西川家 長崎の天文家である西川如見の息子の西川正休が延享4年(1747年)天文方となり、2代続く。 (西川如見)-正休-忠喬 山路家 山路主住が宝暦の改暦(宝暦暦)の際に渋川則休と西川正休の補暦御用手伝となり、明和元年(1764年)に天文方に任命されたのに始まる。2代之徽は天文方に任命されなかったが、3代徳風以後、幕末まで天文方を継承した。なお、徳風の玄孫愛山は、作家として知られている。 山路主住-(之徽)-徳風-諧孝-彰常-(彰善)-(愛山) 吉田家 佐々木長秀(後に吉田秀長)が宝暦の改暦(宝暦暦)の際に西川正休の息子忠喬の作暦手伝となり、明和元年(1764年)天文方に任じられ宝暦暦修正事業を命じられた。以後、吉田家は幕末まで天文方を継承した。 吉田秀長-秀升-秀賢-秀茂 奥村家 奥村邦俊が明和2年(1765年)に新暦調手伝となり、天明7年(1787年)天文方に任じられた。1代限りである。 高橋家 高橋至時が寛政7年(1795年)に天文方に任命されたのに始まる。至時の長男である景保がシーボルト事件に関与して獄死したため、高橋家は2代で終わるが、次男の景佑が渋川家の養子となっている。 高橋至時-景保 足立家 足立信頭が寛政の改暦(寛政暦)のために高橋至時の助手となり、天保6年(1835年)天文方に任じられた。幕末まで2代にわたり天文方を務めた。 足立信頭-(信順)-信行
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