天京事変
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/20 04:00 UTC 版)
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天京事変(てんけいじへん)は、天京(南京)で1856年に発生した太平天国の指導部の内紛である。東王楊秀清・北王韋昌輝・燕王秦日綱が命を落とし、2万人余りが殺害された事変である。天京事変は太平天国が衰亡へ向かう転換点となった。
背景
1851年、天王洪秀全が王制を定めた時、東王楊秀清を他の四王の上位に置いたが、南王馮雲山と西王蕭朝貴が戦死した後はさらに権力が楊秀清に集中するようになった。太平天国では軍師が実権を握っており、天王は各王の上にあるとはいえ、実際の権力は正軍師の楊秀清のもとにあった。さらに楊秀清はたびたび託宣(「天父下凡」)を発し、洪秀全も楊秀清の発する神託に従わざるを得なかった。
都を天京に定めた後、楊秀清が北王韋昌輝や燕王秦日綱、そして翼王石達開の妻の父の黄玉崑を杖刑に処するなどの事件があり、楊秀清と他の諸王との対立が深まっていった。
経過
1856年6月20日、太平天国軍は清軍の築いた江南大営を撃破し、3年にわたる包囲を解いた(第一次江南大営攻略)。情勢が好転したのを見て、楊秀清ははかりごとをめぐらした。楊秀清は「天父下凡」にかこつけて洪秀全を東王府に呼びつけた。天父の神託を演じる楊秀清は洪秀全に「お前と楊秀清はともに我が子であり、楊秀清は功績が大であるのに、何故九千歳に留まっているのか」と問うた(旧中国では万歳は天子に対してだけ許されるもので、太平天国もそれを踏襲し、洪秀全に対してのみ万歳と唱え楊秀清が九千歳、他の諸王が八千歳、七千歳と続いていた)。それに対して洪秀全は「楊秀清も自分と同じく万歳と称させます」と答えざるを得なかった。
楊秀清の配下で以前楊秀清に処罰され恨みを抱いていた陳承瑢という者が洪秀全に「楊秀清に簒奪の意思あり」と上訴した。洪秀全はこの時前線に出ていた韋昌輝と石達開と秦日綱に対し楊秀清を除くように密詔を出した。9月1日、韋昌輝は3千の兵を率いて天京に戻り、城外で秦日綱と会合を持った。陳承瑢が城門を開いて、軍が一気に東王府を襲い、楊秀清を殺害し、楊秀清の一族・部下2万人を殺害した。
9月26日、石達開が天京に戻って韋昌輝に対して彼が行った殺害の凄まじさをなじると、韋昌輝は翼王府を襲い、石達開の一族郎党を殺害したが石達開は脱出に成功した。石達開は安慶で挙兵し、洪秀全に韋昌輝の誅伐を求めた。天京城外の兵のほとんどは石達開を支持し、11月2日、韋昌輝は殺害された。次いで秦日綱と陳承瑢も誅され、天京事変は一段落した。
だが後に洪秀全は楊秀清の罪名を取り消し、楊秀清の命日を「東王昇天節」と定めた。
影響
天京事変後、太平天国内部の人心は動揺し、軍事形勢は逆転した。韋昌輝の死後、石達開が執政を開始したが、洪秀全は自らの一族を重用して石達開を牽制したため、1857年、石達開は大軍を率いて離脱し、太平天国にとってさらに情勢は厳しいものとなった。
天京事変(天京事件)
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「太平天国の乱」の記事における「天京事変(天京事件)」の解説
太平天国を時期的に区分するのであれば、この天京事変をもって前期と後期に分かつのが妥当といえる。前期太平天国は、洪秀全と楊秀清の二人に運営されていたといってよい。宗教的権威を担っていたのがキリストの弟たる前者で、実務を担っていたのが後者である。通常、両者は君臣関係にあった。 しかし、一度楊秀清に「天父下凡」が起きると両者の立場は逆転し、君主たる洪秀全が臣下の楊秀清に厳しく罰せられることになった。元々「天父下凡」や「天兄下凡」は金田村時期に馮雲山が逮捕され、動揺した信者たちを沈静化するために用いられたのが始まりである。その後清朝に対し決起することを決めたのもこの「天父下凡」の権威によってであった。 ただ当初は軍内部の規律維持や楊秀清独裁に反対する幹部の粛清に使用されたのがほとんどで、天王洪秀全自身に向けたものはまれだった。それが天京に入城すると次第に回数が増えていく。その内容は洪秀全の妾の扱い方から楊秀清に対し洪秀全と同じく万歳を唱えるべし、といったことまで様々である。 表面上、楊秀清に恭順していた洪秀全は遂に彼の排除を決意する。同じく楊秀清に圧迫されていた北王韋昌輝を唆し、1856年9月、早朝楊秀清一族並びに配下の兵たちとその家族約4万人が虐殺された。君主によるクーデターといって良い。しばらく後に天京に入城した石達開はこの内部抗争に激しく怒り、韋昌輝の処分を洪秀全に求めた。大報恩寺の塔を破壊して石達開らの進軍に備えたが、洪秀全によって韋昌輝らは粛清された。 洪秀全は韋昌輝の首を石達開の陣営に送り、少しの間、石達開の協力体制がしかれることになる。しかし、洪秀全はすでに肉親以外を重用するつもりはなく、石達開は数カ月で天京を離脱し別行動を取るようになる。 太平天国は皮肉にも支配領域を安定させた途端、内紛が生じて弱体化し、金田村で決起した時の主要人物は洪秀全一人となった。しかし太平天国がこのまま命運がつきることはなく、石達開らにかわる有能な将軍が幾人も輩出し、もうしばらく存続する。
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