大阪戦争・ベラミ事件
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1975年から続いていた「大阪戦争」と呼ばれる三代目山口組佐々木組と二代目松田組の抗争で、鳴海の所属していた松田組 村田組 大日本正義団の組長・吉田芳弘が1976年10月、大阪日本橋の路上で佐々木組組員に射殺された(日本橋事件)。これへの報復として、鳴海は山口組組長・田岡の狙撃を計画。京都市の京阪三条駅前のクラブ「ベラミ」が田岡の行きつけだとの情報を入手し、数ヵ月前から同店に通い詰めて彼の来店を待ち伏せた。 1978年7月11日、映画『日本の首領 完結篇』(監督・中島貞夫)を製作していた太秦の東映撮影所を訪れた田岡が、その帰り道に傘下組長や映画関係者5人を引き連れて同店を訪れた。鳴海は店の隅に座っていたが、ダンスショーが終わった瞬間を捉えて田岡のテーブルに近づき、斜め後ろ約4mの距離から二発銃撃。38口径の銃弾は田岡の首筋を薄く貫き、流れ弾は付近にいた無関係の医師2名に当たり重軽傷を負わせた(ベラミ事件)。店内には50人前後の客や従業員がおり、騒然とする中を鳴海は立ち去り阪急で大阪方面に逃走。2日後には鳴海の犯行と判明した。 鳴海は松田組と忠成会の保護下に置かれたが、再三、愛人に会うために大阪に戻ったり、田岡組長あてに挑戦状を送るなど大胆な行動を続けた。「大物を撃った」ことを鼻にかける言動も多かったため、周囲は手を焼く一方、野放しにするわけにもいかず組織内の負担は大きなものとなっていった。
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