大通寺建立の由来
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/01 03:48 UTC 版)
「大通寺 (百済)」の記事における「大通寺建立の由来」の解説
538年に百済は泗沘に遷都し、中央集権国家の完成と中国南朝文化を直写した新都の造営を目指して南朝梁へ朝貢する。百済の梁への朝貢は、百済聖王代に、524年、534年、541年、549年の4度を記録しているが、注目されるのは、541年の朝貢であり、『梁書』には「累りに使を遣して万物を献じ、並に涅槃などの経義、毛詩博士(「毛詩博士」とは『詩経』の学者)、並に工匠、画師などを請ふ。勅して並に之を給ふ」とあり、百済の南朝梁への朝貢が、仏教・儒教をはじめとする南朝文化の総合的摂取を目指していた。また、別史料では、百済は梁に「講礼博士」すなわち『礼記』の学者の派遣をも要請しており、百済は梁に対して「五経博士」の派遣を要請していた。武帝の仏教思想の中心は、般若経と涅槃経であるが、武帝が深く傾倒したのは涅槃仏性の学説であり、それは、中国江南(中国語版)で盛んだった涅槃学派の影響をうけている。529年の2回目の武帝の捨身では、同泰寺において親しく涅槃経を講じたといい、これらを鑑みると、百済が「涅槃等の経義」の下賜を申請したことは、南朝仏教の動向を的確に把握、武帝の思想をみきわめた措置である。それは、百済の首都に寺院を建立し、梁の年号をとって大通寺と名づけたことと共通する、百済聖王の事大主義を感じ取ることができる。
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