大臣・連邦議会議長
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「カイ=ウヴェ・フォン・ハッセル」の記事における「大臣・連邦議会議長」の解説
1962年、シュピーゲル事件によりフランツ・ヨーゼフ・シュトラウス国防相が辞任を余儀なくされると、1963年1月にハッセルは後任の国防相としてコンラート・アデナウアー内閣に招聘され、州首相を辞任した。続くルートヴィヒ・エアハルト内閣でも国防相に留任した。1964年より州党副代表に転じる(1975年まで)。1965年にドイツ連邦議会議員に復帰。ついでクルト・ゲオルク・キージンガー首相の大連立政権が成立すると、追放ドイツ人・難民・戦争被災者担当相に転じた。1969年2月にドイツ連邦議会議長に選出されたため、大臣職を辞した。 1969年総選挙でCDUは政権から離れたが、議会第一党の地位は守ったため、ハッセルが引き続き議長に留任した。1972年の解散・総選挙ではドイツ社会民主党(SPD)が第一党になったため、ハッセルは副議長に転じた。議長・副議長在任中にさまざまな委員会の委員長を務めたが、中でも1972年10月には西ドイツの国連加盟に伴うドイツ連邦共和国基本法第45条の改正を審議する委員会の議長を務めた。 1973年から1981年まで、欧州連合キリスト教民主同盟総裁を務める。1977年、欧州評議会で副議長を務め、1977年から1980年まで西欧同盟議長を務めた。1979年7月から1984年7月までは初めて直接選挙で選出された欧州議会で議員を務めた。一方1980年を最後にドイツ連邦議会から去り、政界を引退した。 1997年5月8日、アーヘンでローマン・ヘルツォーク大統領に対するカール大帝賞授与式に出席していた際に、心臓発作のため急死した。死の8日後、ドイツ連邦議会で追悼式典が行われた。
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