大根が煮えてもっとも短き日
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季 語 |
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季 節 |
冬 |
出 典 |
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前 書 |
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評 言 |
『橋閒石俳句選集』(1987年)に所収されています。句中、大根が煮えたことに気付いたことと、一日が過ぎ去ろうとしている時間への知覚、このふたつの感覚が書いてあるだけです。手がかりになるものが何もない。しいて想像を働かすなら、小津安二郎映画の一場面で、縁側に座った笠智衆が眼を閉じて庭を眺めている姿といえるでしょうか。掲句に禅的境地にある俳人・閒石氏の素顔を垣間見る思いがします。 閒石俳句にしては珍しく地味な一句ですが、「浄土にも秋茄子くらい在って欲し 閒石」の句につながっていくように感じました。 英文学者であり、チャールズ・ラムの研究者である橋閒石(1903-1992)は金沢に生まれ、四高時代まで金沢に過ごしています。 金沢といえば、加賀百万石の文化と粋な精神が今なお脈々と続いている一方で、一年の三分の一が北陸特有の冬の重苦しさを合わせ持つという二面性に富んでいる土地柄です。当然氏にもそれはバックボーンとなって生涯を貫いていたでしょう。繊細さと洒脱。暗さと艶、温かさと孤高……心の炎を赤々と燃やしながら自在な魂の在りようを詠み続けた、まことに得がたい俳人です。 1984年の句集『和栲』で第十八回蛇笏賞を受賞しています。 まさしくは死の匂いかな春の雪 きさらぎの手の鳴る方や落椿 薄着して柾目の恋の二月かな |
評 者 |
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備 考 |
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