大坂行幸と江戸城の開城
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大坂行幸の発表により、これが遷都に繋がるのではないかと捉えた公家や宮中・京都市民から、反対の声が高まった。そのため、太政官も同時に移すという当初の計画は取り下げられた。慶応4年3月21日(1868年4月13日)、天皇が京都を出発。副総裁・三条実美ら1,655人を伴い、同年3月23日に大坂の本願寺津村別院に到着、ここを行在所とした。天皇は天保山で軍艦を観覧するなどして、40日余りの大坂滞在の後、同年閏4月8日京都に還幸した。同年4月11日には江戸城が無傷で開城されるなど、注目が大坂から江戸に移っていった。 この江戸開城の直後、薩摩藩洋学校(開成所)の教授である前島密による「江戸遷都論」なる建白書が大久保に届けられた。その建白書によると「遷都しなくても衰退の心配がない浪華(大坂)よりも、帝都にしなければ市民が離散して寂れてしまう江戸の方に遷都すべき。(実際に幕末の江戸は求心力の低下に伴い市民らがそれぞれの故郷へ帰郷するものが増加していた。)帝都は国の中央にあるべきで、大坂は道路も狭小、江戸は諸侯の藩邸などが利用でき官庁などを新築する必要がない」などを江戸遷都の理由としている。 後に、大久保も徳川氏を駿府に移し「江戸を東京とすることが良策」であるとし、東京遷都を支持していくことになる。
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