大坂行幸と江戸城の開城とは? わかりやすく解説

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大坂行幸と江戸城の開城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 08:58 UTC 版)

東京奠都」の記事における「大坂行幸と江戸城の開城」の解説

大坂行幸発表により、これが遷都に繋がるのではないか捉えた公家宮中京都市民から、反対の声が高まった。そのため、太政官同時に移すという当初の計画取り下げられた。慶応4年3月21日1868年4月13日)、天皇京都出発副総裁三条実美ら1,655人を伴い同年3月23日大坂本願寺津村別院到着、ここを行在所とした。天皇天保山軍艦観覧するなどして、40余り大坂滞在の後、同年4月8日京都還幸した。同年4月11日には江戸城無傷開城されるなど、注目大坂から江戸移っていった。 この江戸開城直後薩摩藩洋学校開成所)の教授である前島密による「江戸遷都論」なる建白書大久保届けられた。その建白書によると「遷都しなくても衰退の心配がない浪華大坂)よりも、帝都にしなければ市民離散して寂れてしまう江戸方に遷都すべき。(実際に幕末江戸求心力低下に伴い市民らがそれぞれの故郷へ帰郷するものが増加していた。)帝都は国の中央あるべきで、大坂道路狭小江戸諸侯藩邸などが利用でき官庁などを新築する必要がない」などを江戸遷都理由としている。 後に、大久保徳川氏駿府移し江戸東京とすることが良策」であるとし、東京遷都支持していくことになる。

※この「大坂行幸と江戸城の開城」の解説は、「東京奠都」の解説の一部です。
「大坂行幸と江戸城の開城」を含む「東京奠都」の記事については、「東京奠都」の概要を参照ください。

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