大坊創建の事情について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/11 19:27 UTC 版)
康頼による野間大坊(現在の愛知県美浜町)創建の事情については『吾妻鏡』に詳しく述べられているが、頼朝が父・義朝の廟所に参拝した折(建久元年)、その奇特な行いを謝して設けた供養塔という言い伝えには疑問点がある。頼朝は正治元年1月に53歳で死亡している。当時康頼はまだ健在で、その後20年も生きていることから、頼朝が康頼の供養塔を建てるはずがない。明治の末頃、『阿波史』の著者手束愛次郎も疑問をもち、当時の知多郡役所に調査を依頼したところの回答は、「頼朝は建久元年に、野間の大御堂寺にあった父義朝の墓と、家臣の墓を改築した。それが後年になって、平康頼が義朝の墓(この墓でなく以前にあった墓)が荒れているのを修理して、堂宇を建て(大御堂寺の前身)水田三十町歩を寄進したという話の方が有名になり、家臣の供養塔を康頼の墓と誤り伝えたものである。平康頼は当地で死亡しておらず、墓とは何の関係もない」とのことであったという。伝承にいう頼朝が建てたものではなく、後になって、寺に関係した者が、大御堂寺創建者としての康頼を供養して立てたものとみられる。
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