大ピット内閣(1766-1768)
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「ウィリアム・ピット (初代チャタム伯爵)」の記事における「大ピット内閣(1766-1768)」の解説
安定政権を望んでいたジョージ3世は、1766年7月末にロッキンガム侯を罷免し、ピットに組閣の大命を与える決断を下した。 ピットは王璽尚書として内閣を率い、一般に首相と見られる役職第一大蔵卿には第3代グラフトン公爵オーガスタス・フィッツロイを就任させた。しかし組閣の大命を受けたのはピットであり、主導したのもピットであったため、この内閣は一般にはピット内閣と呼ばれる。他に財務大臣としてチャールズ・タウンゼント、北部担当国務大臣としてヘンリー・シーモア・コンウェイが入閣した。閣僚の大半は前政権からの参加者であり、唯一のピット派の閣僚が南部担当大臣として入閣した第2代シェルバーン伯爵ウィリアム・ペティだった(彼は後にピットの派閥を継承する)。 首相就任直後の1766年8月4日にチャタム伯爵に叙され、貴族院へ移籍したが、これは「偉大な平民」と呼ばれて人気が高かったピットにとって人気急落と政権不安定化の要因となった。ピットは「全ての派閥を解消し、あらゆる党派の最良の部分を内閣に生かす」としていたが、ピットの政権運営は非妥協的だったので、もともと敵対関係のグレンヴィル派や第4代ベッドフォード公爵ジョン・ラッセル派に加えて、折衷的だったロッキンガム侯爵派まで完全に野党陣営に追いやってしまった。結局ピットは党派解消どころか、全ての党派を敵に回す格好になってしまった. またピットはこの頃から病気で体調を悪化させることが増え、政治に専念できなくなり、指導力を低下させていた。特に1767年春に躁鬱病を罹患するとほとんど政治的な役割を果たせなくなった。 そのため内閣の政策は元来のピットの主張と異なり、対植民地強硬派閣僚に押し切られたものとなった。1767年夏には財務大臣タウンゼンドの主導でタウンゼンド諸法が制定され、植民地支配機構が強化されるとともにガラス、紙、茶、鉛などに輸入関税がかけられた。アメリカ植民地はこれに強く反発した。 1767年末には対植民地強硬派のベッドフォード公爵派が政権に参加してきたため、政権は一層植民地に対して高圧的になった。ピットやシェルバーン伯爵の植民地に対する穏健な姿勢を支持する閣僚は減り、ついに1768年10月に至って閣内で孤立したピットとシェルバーン伯爵は辞職することになった。
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