外交の舞台へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/07 05:49 UTC 版)
「ジェームズ・ハリス (初代マームズベリー伯爵)」の記事における「外交の舞台へ」の解説
大ピット内閣南部担当国務大臣第2代シェルバーン伯爵ウィリアム・ペティにコネがあり、彼の口利きで外交官となり、スペイン大使館に勤務した。イギリスはこの時、フォークランド諸島をめぐってスペインとのあいだに戦争の危機をむかえていた。本国政府が妥協的であったのに対し、大使不在のなか、彼は一下僚の身でありながら直接スペインと交渉し、強硬策を講じてスペインを譲歩させ、結果として戦争を回避した。まだ、20代前半の若者であった。 1770年から1774年までと、1780年から叙爵される1788年までクライストチャーチ選挙区(英語版)から選出されて庶民院議員を務めた。所属党派ははじめホイッグ党、のち小ピット派(トーリー党)だった。 1772年2月から1776年9月にかけて駐プロイセン公使(英語版)、ついで1776年から1783年まで駐ロシア大使(英語版)を務めた。プロイセンでは、フリードリヒ1世と対等に渡り合い、ロシアではアメリカ独立戦争の敗北によってヨーロッパで完全に孤立したイギリスを全力で支え、女帝エカテリーナ2世に反イギリス同盟に加わらないよう掛け合った。 これらの経験で外交官として名を馳せ、ミラボーから「狡猾かつ大胆なハリス」と恐れられた。
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