外交儀礼の問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/15 14:35 UTC 版)
公使派遣問題(日本―朝鮮)条約体制のもとでは、条約を締結した両国が公使を交換赴任させることが定められている。日朝修好条規を締結後も日朝間では公使派遣が実現されなかった。朝鮮側が激しく反対したためである。条約は朝鮮側からすれば、江戸幕府と朝鮮の間の交隣関係が復活したとの捉え方で、近代国際法下に入ったという意識は無かったためであった。朝鮮側の強い反対があったものの、日本の公使花房義質が日朝間を頻繁に往来して、ついには1880年12月漢城に公使館を設置し長期滞在して既成事実化することで決着した。 公使謁見問題(日本―清朝)清朝でも公使派遣については当初受け入れられなかったが、日本と日清修好条規を締結する頃には、すでに公使の派遣自体は問題視されていなかった。しかし国家元首に謁見すること、すなわち清朝皇帝と会見することは、長い間非常に高いハードルがあったと言わねばならない。清朝にあっては、外国人公使が神聖なる中国皇帝と直接と会見する際には三跪九叩頭をしなければならず、礼を求める清朝側とこれを拒否する外国公使側とで折り合いがつかず、1870年代まで清朝皇帝と簡単には会うことができなかったのである。しかし1873年に日清修好条規を締結した際、副島種臣は『万国公法』に根拠に同治帝に謁見を求め、三跪九叩頭の礼をしないでの会見を成功させた。これは幼くして即位した同治帝がある程度成長したこと、欧米人よりは日本人の方がまだ心理的抵抗がなかったことが影響した。常駐外国公使に清朝皇帝が謁見を許可したのはこれが最初であった。
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