堅中圭密
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 01:33 UTC 版)
天龍寺の高僧。日本国王・足利義満の正使として明朝に来朝。容姿はヒトラーっぽいちょび髭を生やしたいかにも狡猾という、ステレオタイプな日本人像。使者として中国に上陸したのは、南京陥落前の建文4年(1402年)5月13日であって、靖難の役が集結するまで高見の見物を決め込んでいた。6月、朱棣(永楽帝)が南京を制圧し、皇帝に即位すると、正式に朝廷に参内し、永楽帝に謁見。永楽帝に対して挨拶を述べる。このとき重臣の解縉によって「陛下に差し出している国書は偽物。日本国王の国書の正本は、建文帝に献上済である」と厳しく指摘されたが、これに対して堂々と反論。そして、「国書は2つ用意してきたのだ。どっちが勝つかわからなかったのでな!!」と悪びれもなく言ってのけた。これには朝廷の官吏たちも「巧言令色!」と口にして、強い呆れと怒りを露わにした。来朝後は、大陸沿海で略奪などの悪事を働く倭寇を一掃すべく、尽力。期日までに大半の倭寇を誅滅・捕縛し、明朝に引き渡して、その処分を永楽帝に委ねた。また、鄭和の第1回の出航式典にも参加。鄭和や永楽帝に対して、「懸念すべき最大の海賊は日本国の倭寇ではなく、大明の海にのさばっている陳祖義だ」と強く忠告した。
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