地理的理由
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 23:36 UTC 版)
移転運動草創のとき小学東校で発表された永井貫一の主意書には、次のように記されていた。 県庁の位置たる、現今都賀郡栃木町に在て下野全国を管轄する、其然る所以のもの他無し。さきに上野三郡に跨り県治を施行し人民被治の便宜なる為に由るのみ。すでに宇都宮県を廃し又は上野三郡は群馬県に所属し而後は本県は独り下野九郡を管するのみ。是に於て其位置則ち一隅に偏在するに至り頗る人民被治の不便を醸成する、亦推知するべきなり〈中略〉因て生等下野全管を洞見するに、我が河内郡宇都宮は、固より四通五達の一都会にして、四方の便宜、天然の良区と称するも敢て誣言に非るべし 1882年(明治15年)11月に藤川に提出された「県庁移転請願に付庁用敷地上地願」(宇都宮の熱木町、南新町、歌橋町、大黒町、蓬莱町の惣代・戸長ら連名)では、宇都宮町が県の中央にあり、交通至便の地であるとしている。同年、川村ら数名からの請願にも、古より政庁は「中央輻輳」の地に置くものであって「諸方道里均シフシテ、上下共ニ其便ヲ得ルカ為ナリ」とあり、その点栃木町は「下野ノ西南ニ偏倚シ、河内以北ノ各郡ニ於テハ道里ノ遠隔セル、命令ノ自ラ遅緩ナル従来人皆其不便ニ苦シメリ」と主張している。 永井の主意書にあるとおり、背景には前述の東毛3郡の群馬県への編入がある。栃木町は下野国南西部に位置しているが、1873年(明治6年)6月の栃木県の成立当初は県の領域の南西に上野国東部の3郡が加わっており、栃木町の位置は県の中央と目されたため県庁設置について問題とはならなかった。しかし3郡が群馬県に移り、栃木県が下野国と等しい領域に戻ることで、栃木町の位置は「西南ニ偏倚」していると指摘されるようになった。 道路網の充実度も論点となった。川村らの請願では、宇都宮町は下野最大の名邑であり奥羽・日光街道の要衝であるとの旨が述べられており、田代 1935にも「奥州の関門の地にあつて交通は四通八達の位置にある、内外公私の便よろしきこと杤木町の比にあらず」とある。奥州道中と日光道中の分岐点であり乗合馬車も開通した宇都宮町が陸路の点で優れていることは論点のひとつで、この点では脇街道の日光例幣使街道のほか見るべきもののない栃木町は圧倒されていた。
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