国体ヲ護持シ得テ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 14:34 UTC 版)
1945年8月、広島・長崎への原爆投下を経てソ連が参戦し、その翌日の10日、日本政府は連合国にポツダム宣言受諾を通告する。その際、国体維持を条件につける。これに対し12日に連合国の回答が届く。その中に「日本政府の形態は日本国民の自由意志により決められる」とあり、軍部はこれを共和制に導くものとして強硬に反対する。昭和天皇は連合国の回答を容認して、木戸内大臣に次のように語る。 たとい連合国が天皇統治を認めてきても、人民が離反したのではしようがない。人民の自由意思によって決めてもらっても、少しも差しつかえない。 また連合国回答に「天皇および日本政府の国家統治の大権は連合国最高司令官の制限下(subject to)に置かれる」とあったことで、軍部が subject to の文言を国体否定とみなして回答文を拒絶する姿勢を示す。このため天皇は14日、改めて御前会議を開き、終戦を決める。その席上、国体護持について次のように説明する。 国体問題についていろいろ疑義があるとのことであるが、私はこの回答文の文意を通じて、先方は相当好意を持っているものと解釈する。先方の態度に一抹の不安があることは一応もっともだか、私はそう疑いたくない。要は我が国民全体の信念と覚悟の問題であると思うから、この際先方の申入れを受諾してよろしいと考える、どうか皆もそう考えて貰いたい。 1945年8月15日玉音放送。 朕は茲(ここ)に国体を護持し得(え)て、忠良なる爾(なんじ)臣民の赤誠(セキセイ)に信倚(シンイ)し、常に爾(なんじ)臣民と共(とも)に在(あ)り。〔…〕宜(よろ)しく挙国一家子孫相伝(あいつた)え、確(かた)く神州の不滅を信じ、任(ニン)重(おも)くして道遠(みちとお)きを念(おも)い、総力を将来の建設に傾(かたむ)け、道義を篤(あつ)くし、志操を鞏(つよ)くし、誓(ちかっ)て国体の精華を発揚し、世界の進運に後(おく)れざらむことを期すべし。
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