四夷と中華の支配
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清の第5代皇帝である雍正帝は、華夷思想により満州人を夷狄とみなし、漢民族の明の復活を唱える思想家に対しては自ら論破し、討論の経緯を『大義覚迷録』という書物にまとめ、『孟子』にある「舜は諸馮に生まれて負夏に移り、鳴條で亡くなった東夷の人である。文王は岐周に生まれ、畢郢に死した西夷の人だ。距離の離れること千余里、時代にして後れること千年あまりだが、志を立てて中国で実行したことは割り符を合わせたように一致している。先の聖人も後の聖人も、みな軌を一にしているのである」という中国戦国時代の儒学者である孟子の言葉をなぞりつつ、「本朝が満州の出であるのは、中国人に原籍があるようなものだ。舜は東夷の人だったし、文王は西夷の人だったが、その聖徳は何ら損なわれてはいない」と強調している。 且夷狄之名,本朝所不諱。孟子云:“舜東夷之人也,文王西夷之人也。” 本其所生而言,猶今人之籍貫耳。況滿洲人皆恥附於漢人之列,準噶爾呼滿洲為蠻子,滿洲聞之,莫不忿恨之,而逆賊以夷狄為誚,誠醉生夢死之禽獸矣。夷狄の名は、本朝は諱むところではない。孟子は、「舜は東夷の人であり、文王は西夷の人である」と言っている。もとの生まれたところは、なお今人の籍貫のようなものである。いわんや満州人はみな漢人の列に附することを恥じている。ジュンガル部は満州人を蛮子と呼び、満州人はこれを聞いて、憤り恨まないものはなかった。それなのに逆賊(の曽静)が夷狄であることを罪としたことは、まことに(『程子語録』にいう)酔生夢死(何も爲すことなく無自覚に一生を送る)禽獣である。 — 大義覚迷録 中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。大義覺迷錄/卷一#二 李氏朝鮮の文人・儒学者である林悌は、病死する際に、歴史上長城外の四夷だけでなく、西南のチベット系吐蕃でさえ中華世界を一度は征服するか、都を占領し脅威を与えているのに、朝鮮だけは中華の脅威になったことすらなく、朝鮮は大中華に君臣の礼、君父に忠のみである、と慷慨し、悲嘆にくれながら死んだ。 四海諸國, 未有不稱帝者, 獨我邦終古不能, 生於若此陋邦, 其死何足惜.四夷八蛮が皆中原に入ったのにただただ朝鮮だけできずにいる。こんな情けない国に長生きしていてもどうにもならない。 — 林悌、星湖僿說
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