周辺の防衛体制
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 14:37 UTC 版)
「コンスタンティノープルの城壁」の記事における「周辺の防衛体制」の解説
コンスタンティノープルには、市街を囲う城壁の外側にもさまざまな時代に多くの防衛設備が整えられていた。その中でも最初かつ最大のものが、アナスタシオスの城壁 (Gk. τεῖχος Ἀναστασιακόν, teichos Anastasiakon) 、またの名を「長い壁」 (μακρὸν τεῖχος, makron teichos, or μεγάλη Σοῦδα, megalē Souda)と呼ばれた長城である。5世紀半ばにコンスタンティノープルの約65キロメートル西方に建設された、厚さ3.30メートル、高さ5メートルを超える城壁であったが、防衛上の価値は明らかに限定的で、7世紀には城壁や守備兵を維持することが困難になり放棄された。その数世紀後には、城壁の大部分は住民の家屋の建材として取り去られ解体されたが、一部、特に都市から離れた中部・北部においては現存しているところもある。 アナスタシオスの城壁とコンスタンティノープル市の間にも、いくつかの小さな町や城塞が存在した。例えばヘブドモン地区 (Ἕβδομον" 「第7」の意。その名はミリオンから7マイルの地点にあたることに由来する。現在のバクルキョイ)には、巨大な軍営が置かれていた。アナスタシオスの城壁の外側には、ヴィゼとアルカディオポリスという2つの町が北側の街道をおさえていた。ここは陸上からコンスタンティノープルに至る主街道であり、戦略的要地にあたる2都市は歴史上コンスタンティノープル防衛の上で非常に重要な役割を担ってきた。例えば帝国軍の集結場所とされたり、侵略軍に対する抵抗拠点となったり、最悪の場合はコンスタンティノープルの防衛体制が整うまでの時間稼ぎの役回りを演じた。こうした郊外都市として歴史上特に有名なのが、セリュンブリア(現シリヴリ)である。この町は1453年のオスマン帝国による最後のコンスタンティノープル包囲の際、首都が陥落するまで降伏しなかった。小アジア側では、同様の役割をニカイアやニコメディア、またマラギナの大駐屯地が担っていた。
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