反戦論と逮捕・収監
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/22 15:13 UTC 版)
「ユージン・V・デブス」の記事における「反戦論と逮捕・収監」の解説
その後、第一次世界大戦においてはドイツによる無制限潜水艦作戦の影響でアメリカ世論がタカ派に傾き1917年には参戦するなかで、1918年には大戦に反対するデブスの演説が前年に制定された諜報活動(スパイ)防止法違反に問われてしまう。彼は最高裁判所まで争ったが、1919年4月にはジョージア州アトランタの刑務所に10年の刑で収監される。こうして1920年の大統領選挙にはデブスはふたたびアメリカ社会党に擁立され、今度は獄中から立候補することになった。この選挙では有権者増により過去最高の得票を得たものの、反戦論を非国民視する風潮のなか得票率では3.4%にとどまった。 1921年のクリスマスに、デブスはハーディング大統領による恩赦で釈放された。その3年後にノーベル平和賞に推薦される。1926年に獄中生活から体調を崩してサナトリウムに入院するが、サナトリウムでは民間療法や代替医療しか施されず病状が悪化し10月20日に死去(70歳)。その頃には既にロシア革命の影響を受けたアメリカ共産党と分裂していたアメリカ社会党は、勢力を落としていった。
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