占巴的頼とは? わかりやすく解説

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インドラ・ヴァルマン6世

(占巴的頼 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/23 16:48 UTC 版)

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巴的吏(バドラ、Bhadra、生年不詳 - 1441年)は、チャンパ王国(占城国)の15世紀国王(在位:1400年または1401年 - 1441年)。『明史』は占巴的頼と書く。碑文に見える梵語王号はバドラ(Bhadra、正確にはヴィーラバドラヴァルマン Vira Bhadravarman)であり、『大越史記全書』に見える漢語王号の巴的吏と対応する。『明史』の占巴的頼をチャンパーディラージャ(Campadiraja)の音訳とする説もあるが、この時期の梵語・チャム語碑文の王号はチャンペーシュヴァラ(Campesvara)であって、チャンパーディラージャではない。また、この時期のチャンパ王都ヴィジャヤは諸蕃志のいう新州、『大越史記全書』のいう闍槃(南ベトナムの中央、いまのビンディン省クイニョン市北方)であったと考えられる。

生涯

チャンパ王即位

羅皚の子。ビンディン碑文によれば、1401年、父王が死去すると、後を継いで即位した(バドラ Bhadra の梵名はここに現れる。なお碑文本文は梵語ではなくチャム語である)。大越史記全書では1400年の即位。北ベトナム胡朝の侵攻を受けて敗北し、かつて諸蕃志などの中国史料が旧州と呼んだ地域(南ベトナムの北方)のほぼすべてを大越(胡朝の簒奪後は大虞)に占領された。

北属期

に援助を求め、1407年永楽帝がベトナムに兵を送って胡朝を滅ぼし(明胡戦争英語版、明・大虞戦争)、第四次北属時期(1407年-1427年)に入った。1408年鄭和の使節を迎え、その返礼として王孫の舎楊該を明に送った。

1415年、北ベトナムで陳季拡を支援していたことが発覚し、明に謝罪の使者を送った。

藍山蜂起1418年 - 1428年)。1418年、王孫の舎那挫を明に送った。

1426年、明の黄原昌を迎え、正朔を受けた。

闍槃王朝

丑の年(1433年)、パーンドゥランガ朝(Panduranga、37年前の丑の年=1397年にJekに滅ぼされたBal Angueiのチャム人の後継王朝)が再興される。これは巴的吏治下のチャンパ(闍槃王朝)から分離したと考えられる。

1436年、明への朝貢が年一貢から三年一貢に改められた。

最後

1441年に逝去(この年代はビエンホア碑文のクロノグラフ(サンカラ、ソンコロ)のLouis Finot, 1915による解釈。AymonierやCabatonは別の年代を挙げる)。

影響

1471年チャンパ・大越戦争英語版で大越黎朝1428年 - 1788年)が侵攻し、闍槃王朝が滅亡。

関連項目

  • マウラナ・マリク・イブラヒーム英語版スーフィズムワリ・サンガ)。14世紀末~15世紀初めのチャム王女に関する伝説集であるチャム写本「ダムヌイ・ポーシャハイヌー」によれば、パーンダランのパジャイ地方でイスラームを布教した二人兄弟の師または父の名はポーシワン(Po Siwan、またはポーアヌシルワン Po Anusirwan)とされ、マウラナ・マリク・イブラヒムとイスラーム学統上の関係があったと考えられる。


先代:
羅皚
チャンパ王の一覧
第十四王朝2代:1400年 - 1441年
次代:
摩訶賁該



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