卑弥呼とは? わかりやすく解説

卑弥呼

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/01 10:01 UTC 版)

卑弥呼(ひみこ/ひめこ、建寧3年(170年)頃 - 正始9年(248年))は、『魏志倭人伝』等の古代中国の史書に記されている「倭国女王」と称された人物[1][2]。魏志倭人伝によると、倭人の国は多くの男王が統治していた小国に分かれていたが、2世紀後半に小国同士が抗争したために倭人の国は大いに乱れた。そのため、卑弥呼を擁立した連合国家的組織をつくり安定した。「卑弥呼は鬼道に仕え、よく大衆を惑わし、その姿を見せなかった。生涯夫をもたず、政治は弟の補佐によって行なわれた」と記されている[3][注釈 1]も不明で、239年に三国時代から与えられた封号親魏倭王。247年に邪馬台国が南に位置する狗奴国と交戦した際には、魏が詔書と黄幢を贈り励ましている。古代の日本で記述された「古事記」「日本書紀」に卑弥呼は登場しないため、日本国内では別の名前で呼ばれていたとされる[4][5]


注釈

  1. ^ 卑弥呼が閉じこもって祭祀のみ行い、実際の政治を男弟に委ねていたとする説に対しては、『日本書紀』の記述ではワカタケル(雄略天皇)もからの使者に面会しておらず、また稲荷山古墳出土鉄剣にも、豪族ヲワケがワカタケルを(男弟が卑弥呼に対したように)「左治」したとあることから、卑弥呼はワカタケルと同質の王であったとの反論がある(義江 2018, pp. 92, 98, 100)。
  2. ^ 同三年(239年)の誤記とする説が有力
  3. ^ ただし帯方郡に付託した状態でありこの段階では倭国にはまだ届けられてはいなかった。
  4. ^ この黄幢は正始六年に帯方郡に付託されていたもの。
  5. ^ 卑弥呼が即位したのは180年代と推定されるので173年には未だ女王卑弥呼は誕生していないので、この年紀は干支1運60年繰り上がった233年ではないかと考えられる。
  6. ^ 192年から194年にかけて、新羅・高句麗・中国で異常気象や飢饉の記録があるので、山本武夫はこの頃東アジア一帯が小氷期に見舞われていたとして、倭人の飢饉もその一環とする説を唱えている。
  7. ^ 日本書紀の神功皇后紀に登場する「宇流助富利智干(うるそほりちか)」か。
  8. ^ 日本書紀の「宇流助富利智干」は神功皇后に降伏した新羅王として出てくるが「一書曰く」で始まる別伝では、日本に殺される新羅王の話があり、これは『三国史記』の于老の話と筋立てが同じであるから同一の史実に基づくと考えられる。

出典

  1. ^ NHK. “卑弥呼~むらからくにへ~ | 歴史にドキリ”. NHK for School. 2022年1月15日閲覧。
  2. ^ INC, SANKEI DIGITAL (2018年3月22日). “【今週の注目記事】古代史の七五三論争 日本国はいつ誕生したか、天皇制につながる卑弥呼の統治”. 産経ニュース. 2022年1月15日閲覧。
  3. ^ 第2版,世界大百科事典内言及, 朝日日本歴史人物事典,日本大百科全書(ニッポニカ),ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,百科事典マイペディア,デジタル大辞泉,旺文社日本史事典 三訂版,デジタル版 日本人名大辞典+Plus,日本の企業がわかる事典2014-2015,デジタル大辞泉プラス,防府市歴史用語集,世界大百科事典. “卑弥呼とは”. コトバンク. 2022年1月15日閲覧。
  4. ^ 邪馬台国の女王卑弥呼と天皇家の関係・卑弥呼の時代の天皇は誰か”. Mayonez [マヨネーズ]. 2022年1月15日閲覧。
  5. ^ asahi.com:シンポジウム | 朝日新聞社インフォメーション”. www.asahi.com. 2022年1月15日閲覧。
  6. ^ 小学館 小学生なら知っておきたい もっと 教養366 p136より
  7. ^ 新羅本紀第二阿達羅尼師今二十年夏五月 倭女王卑彌乎遣使来聘
  8. ^ 新羅本紀第二伐休尼師今十年六月 倭人大饑来求食者千余人
  9. ^ 新羅本紀第二奈解尼師今十三年四月 倭人犯境遣伊伐飡利音将兵拒之
  10. ^ 古事記
  11. ^ 伊藤博文著『皇室典範義解』第三十一条解説は「・・・上古に考うるに皇子は『みこ』と称え、皇女は『ひめみこ』と称う」と指摘している 伊藤博文著『皇室典範義解』現代語訳 参照
  12. ^ 古事記では孝霊天皇以後「この天皇の御子等あわせて八柱。男王(ひこみこ)五、女王(ひめみこ)三」のように記した例が多く見られる。
  13. ^ a b 国史異論奇説新学説考 藤井尚治 1937年
  14. ^ 「卑弥呼とヤマト王権」中央公論新社 342頁
  15. ^ 「卑弥呼とヤマト王権」 中央公論新書 2023‐3‐10 272頁
  16. ^ 浙江大学オンライン図書館、リンク先150ページ(『通志』·一百九十四巻 鄭樵)、(邪馬台国新聞16号「文献上における卑弥呼死亡時期の確定~通志の倭人伝解釈~」岡上佑)
  17. ^ NASAによる241~260年の皆既・金冠日食。一般の天文シミュレータでも確認可能。
  18. ^ a b c 大津透 2017, p. 47.
  19. ^ 佐々木宏幹 1992, p. 122.
  20. ^ 佐々木宏幹 1992, p. 132‐133.
  21. ^ 佐々木宏幹 1992, p. 130.
  22. ^ 「倭人・倭国伝全釈」 角川ソフィア文庫 令和2年7月25日 270‐271頁
  23. ^ 大津透 2017, p. 48.
  24. ^ 「卑弥呼とヤマト王権」 中央公論新書 2023‐3‐10 272頁
  25. ^ 大津透 2017, p. 166.
  26. ^ 大津透 2017, p. 53.
  27. ^ 『邪馬台国 』 石原洋三郎 令和元年十月八日 第一印刷
  28. ^ 奥野正男『邪馬台国は古代大和を征服した』、糸島平原遺跡の研究 など。
  29. ^ 『邪馬台国』石原洋三郎 2019年(令和元年)10月 第一印刷 p50-54 かつて帯方郡のあった朝鮮では、近年まで周尺を基準としており、六尺で一歩(=約1.2メートル)としていた。百余歩は120メートル前後となる。「歩」という単位は元々、右足を踏み出し、次に左足を踏み出した時の起点から踏み出した左足までの長さを言う。また「尺」という文字は、手を広げた際の親指の先から中指の先までの長さを尺とすることに由来している。
  30. ^ 柴原聡一郎「前方後円墳の墳丘長の規格性」『東京大学考古学研究室研究紀要』第33巻、東京大学大学院人文社会系研究科・文学部考古学研究室、2020年3月、155-182頁、doi:10.15083/00079715hdl:2261/00079715ISSN 18803784CRID 1390009224603755904 
  31. ^ 岡林, 水野 & 北山 2008, pp. 289–291.
  32. ^ ホケノ山古墳と箸墓古墳”. 橿原考古学研究所附属博物館. 2019年10月28日閲覧。
  33. ^ 『ホケノ山古墳の年代について』 平成12年3月28日 新聞各紙の報道”. 邪馬台国の会. 2023年6月13日閲覧。
  34. ^ 石塚山古墳 - 福岡観光情報 クリスロードふくおか
  35. ^ 苅田町公式 石塚山古墳
  36. ^ 『邪馬台国』石原洋三郎2019年(令和元年)10月 第一印刷 p52-54
  37. ^ 「『復刻版 豊前石塚山古墳』苅田町・かんだ郷土史研究会 2016年8月」石塚山古墳は初期国家草創期に築造され、北部九州の中でも傑出している存在として考えられている。
  38. ^ 苅田町歴史資料館文化財ガイドブック (PDF)
  39. ^ 『邪馬台国』石原洋三郎 2019年(令和元年)10月 第一印刷 p50-54 魏志では、倭人が死んだ際の葬儀の風習として『其死、有棺無槨、封土作冢。』と記述されている。そのため、卑弥呼の墓も棺(かんおけ)はあるが槨(そとばこ)はない可能性がある。しかしながら、卑弥呼は女王であり高貴な身分であるため、一般人の埋葬とは差があり、有棺無槨とは違う可能性もある。倭人の諸々の風俗の説明では、『尊卑有差』、『尊卑各有差序』とあるように、身分によって差があると記述されている。卑弥呼は奴婢100余人が共に埋葬されたり、径100余歩もの大きな塚が作られており、既に一般人とは大きく差がある埋葬のされ方をしている。
  40. ^ a b 宝賀 2001, pp. 62–95.
  41. ^ 「倭女王卑弥呼考」『白鳥庫吉全集』 第1巻 岩波書店 1969年和辻哲郎『新稿 日本古代文化』 岩波書店1951年
  42. ^ 毎日新聞(関西)朝刊 1995年7月25日8月5日
  43. ^ 「中国・日本の古代日食から推測される地球慣性能率の変動」第35回天体力学研究会集録, 282 - 295, 2003(論文)名古屋大学の河鰭公昭、国立天文台の谷川清隆、相馬充は、慣性能率の変動によると疑定される有意な地球の自転速度変化を論じ、自転速度低下率が一定であると仮定していた過去の計算法の精確性に対して疑問を投げかけている。
  44. ^ 『卑弥呼の謎』講談社新書 1972年など。
  45. ^ 宝賀寿男『「神武東征」の原像』青垣出版、2006年。
  46. ^ 安本美典『神武東遷』(中公新書 中央公論新社 1982年 ISBN 9784121001788、徳間文庫 徳間書店 1988年 ISBN 9784195984840
  47. ^ 『邪馬台国』 石原洋三郎 令和元年(2019年)10月 第一印刷p55
  48. ^ 約385km 一里=約77m で換算(短里説周髀算経・一寸千里法」による)
  49. ^ 『邪馬台国 』 石原洋三郎 令和元年十月八日 第一印刷 石原は北史倭国伝「其国境、東西五月行、南北三月行、各至於海」の概念により、魏志倭人伝で曖昧とされた旅程日数・方角・距離について明確化されたとしており、邪馬台国は九州「阿蘇山」であるとし、支配地域は「筑紫国豊国火国」の三面としている。
  50. ^ 『邪馬台国 』 石原洋三郎 令和元年十月八日 第一印刷 P54-56
  51. ^ 折口信夫『天照大神』 1952年、松前健『日本の神々』 中央公論社 1974年、松前健『日本神話の謎』 大和書房 1985年
  52. ^ 岡正雄三品彰英は、本来の皇祖神はタカミムスビであるとしている。
  53. ^ 隋書では俀國、俀王。
  54. ^ 天、王、日をこの順序で含む漢語として一部の神獣鏡に刻まれた「天王日月」がある。『日本書紀』神代上の本文ではイザナギとイザナミが「いかにぞ天下の主者を生まざらむ」と言って日神と月神の兄弟(姉弟)を産んだとされる。一書ではイザナギが白銅鏡を持って日と月を産んだとされる。
  55. ^ 筑紫申真『アマテラスの誕生』 講談社 2002年、佐藤弘夫『アマテラスの変貌―中世神仏交渉史の視座』 法藏館 2000年
  56. ^ 『古代海部氏の系図』(金久与市,1983年)
  57. ^ 『国宝「海部氏系図」への疑問』(2006年) 宝賀寿男
  58. ^ 太田亮『姓氏家系大辞典』角川書店 1963年 第三巻P6661(原典は静岡県磐田市、國玉神社大久保氏系図)
  59. ^ 2世紀後半の倭国大乱~孝霊天皇の吉備平定~卑弥呼(百襲姫)誕生
  60. ^ 邪馬台国 ナゾ解き続く 化学分析、畿内説に"軍配" 箸墓古墳産経新聞 2009年5月29日
  61. ^ 全現代語訳日本書紀上巻(宇治谷孟訳、講談社学術文庫、1988年)129頁。
  62. ^ ただし、古事記の崩年干支を重視しつつも、具体的にそれが西暦の何年なのかという点では様々な説が数多く存在する。
  63. ^ 義江明子「"聖なる女"の思想的系譜」(初出:竹村和子・義江明子 編『ジェンダー史叢書3 思想と文化』(明石書店、2010年)/所収:義江『日本古代女帝論』(雄山閣、2017年) ISBN 978-4-8273-1290-4)。なお、義江は近代以降の卑弥呼研究が明治以降の欧米の原始女子シャーマン説や大元帥としての男性天皇像、戦後の象徴天皇制の下で盛んになった天皇不親政論やフェニミズムに基づく女性の霊性論などによって実態とかけ離れた方向に向かっていると批判している。
  64. ^ 誤解が流布しているが筑後国山門郡説を唱えたのは本居宣長ではなく新井白石である。
  65. ^ 本居宣長馭戒慨言』、鶴峯戊申襲国偽僣考』、近藤芳樹『征韓起源』など。安本美典『江戸の邪馬台国』 柏書房 1991年等を参照。
  66. ^ 本居宣長『馭戎概言』
  67. ^ 本居や鶴峰は卑弥呼・壱与のみならず倭の五王も熊襲による僭称としており、これらの考えは古田武彦らの吉田史学へと引き継がれている。






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