卑弥呼との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 05:13 UTC 版)
『日本書紀』には『魏志』と現存しない『晋起居注』から「倭の女王」についての記述が引用されている。『魏志』での倭の女王とは邪馬台国の卑弥呼のことであり、江戸時代までは神功皇后が卑弥呼だと考えられていた。ただし倭の女王の記述はあくまでも引用されているだけであり神功皇后と卑弥呼、台与を同一視する記述はなく、卑弥呼、台与、邪馬台国といった魏国が書き記した名称も『日本書紀』には書かれていない。神功皇后と卑弥呼を同一視させようと意図的な作意があると見る研究者もいる。『魏志』からの引用は現存する『魏志』と相違があり、特に人名・役名に相違が多いため、以下の訳文では現存の『魏志』に基づく人名・役名を示す。 神功皇后摂政39年(239年)魏志云「明帝景初三年六月 倭女王 遣大夫難斗米等 詣郡 求詣天子朝獻 太守鄧夏 遣吏將送詣京都也」(訳:魏志によると明帝の景初3年6月、倭の女王は大夫の難升米等を郡(帯方郡)に遣わし天子への朝獻を求め、太守の劉夏は吏將をつけて都に送った) 神功皇后摂政40年(240年)魏志云「正始元年 遣建忠校尉梯携等 奉詔書印綬 詣倭国也」(訳:魏志によると正始元年、建中校尉の梯儁らを遺わして倭國に詔書・印綬を与えた) 神功皇后摂政43年(243年)魏志云「正始四年 倭王復遣使大夫伊聲者掖耶約等八人上獻」(訳:魏志によると正始4年、倭王はまた大夫の伊聲耆・掖邪狗たち8人を遣わして朝貢した) 神功皇后摂政66年(266年)是年 晋武帝泰初二年晋起居注云「武帝泰初二年十月 倭女王遣重譯貢獻」(訳:この年は晋の武帝の泰初(泰始の誤り)2年である。晋の起居注という記録によると泰初2年10月に倭の女王が使者を送り通訳を重ねて朝貢した) 以上が引用された全文である。現存の『魏志』では最初の遣使は景初2年(238年)であり、明帝(曹叡)は景初3年1月に死去している。『晋起居注』の引用では泰始を泰初とした元号の誤りがあるが、『注』が現存しないため引用の誤りとは断定できない。また泰始2年に卑弥呼は既に死去しており、この年の倭の女王は台与の可能性が高いとされている。現存する『晋書』武帝紀では泰始2年(266年)11月に倭人が朝貢したこと、四夷伝では泰始の初めに倭人が通訳を重ねて朝貢したことは書かれているが、いずれも女王という記述は無い。
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