千歳御殿と千歳の庭園とは? わかりやすく解説

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千歳御殿と千歳の庭園

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 13:43 UTC 版)

富山城」の記事における「千歳御殿と千歳の庭園」の解説

千歳御殿と千歳の庭園は、富山城東の出丸東側(現 桜木町)に1849年嘉永2年)に富山藩10代藩主前田利保建造した大名屋敷庭園で、元々この地には、1831年天保2年)の大火焼失した前田利保居所「中之御屋敷」があり、1848年嘉永元年)より再建始め移り住んだその際名称を千歳御殿改名した千歳御殿は、四方を堀に囲まれ南北長い複雑に入り組んだ一部2階建の屋敷で、富山城の中では最も豪華で他城では見られない大名御殿である。南西角には現在富山城址公園東側移築され正門である千歳御門が、建物内部には式台玄関御広間御書院、表御居間御休憩所、奥寝所能舞台能舞台正面には室内すべて金を用いた御覧所の間(純金の間)などがある贅を尽くした建物であった北・東南側には千歳庭園があり、北側の堀の上には釣殿、その北側には茶室梧桐舎(御茶室)」、御涼所東側は堀の東側に2列に並んだ桜並木薬草園、御裏稲荷神社蠑螺(さざえ)山(築山)、泉水(池)、南側には録寿天満宮梅園などがあり、御裏稲荷神社祭礼には門戸開け多く町民で賑わった。 しかし建造から6年後の1855年安政2年2月大火千歳御門以外はほぼ焼失しばらくして再建されたが簡素なもので能舞台作られなかった。 その後最後藩主となる第13代藩主前田利同まで居所として使用されていたが、幕末には東側の堀が埋め立てられ細い水路となり、1871年明治4年)には、利同が東京家族とともに移住したため主を失い1872年明治5年)には千歳御殿取り壊され東側の堀の桜並木をはじめ多く桜の木があったことから桜木町命名富山市内に散在し遊廓をこの地に集めたことから歓楽街として発展していくこととなる。

※この「千歳御殿と千歳の庭園」の解説は、「富山城」の解説の一部です。
「千歳御殿と千歳の庭園」を含む「富山城」の記事については、「富山城」の概要を参照ください。

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