千家俊信とは? わかりやすく解説

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千家俊信

読み方せんげ としざね

江戸後期国学者出雲国造俊秀次男一説に弟)。一家分立して清主と称しの舎と号する西依成斎について儒学修め、さらに本居宣長の門に学ぶ。帰国後一塾を設けて子弟教育従事し山陰道古学振興功績があった。また詠歌槍術医学天文精通していた。著書多数天保2年(1831)歿、68才。

千家俊信

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/10 13:55 UTC 版)

千家 俊信(せんげ としざね、宝暦14年1月16日1764年2月17日〉 - 天保2年5月7日1831年6月16日〉)は、日本国学者であり歌人。第七十六代出雲国造千家俊秀の弟。出雲国神門郡杵築村宮内(現島根県出雲市)生まれ。のちに分家して千家日古主と名乗ったり、清主と改名したりした。明治の文豪小泉八雲の妻セツは玄孫にあたる。

人物像

一般には彼の開いた塾の名をとって梅廼舎(うめのや)と呼ばれた。若い頃漢学を学び、壮年になってから京都に出て、浅見絅斎の高三傑の一人であった西依成斎の門に入って、儒学を修めた。寛政4年(1792年)、29歳の時に伊勢に行き本居宣長のもとで学び、その高弟の一人になった。その後郷里に帰り梅の舎塾を開いた。この時から杵築は中国地方における国学の先進地となり、他国からの留学生がたくさんみられるようになった。寛政12年(1800年)の梅の舎塾の門人録には220人もの名が記録されている。

俊信は遠江国内山真龍の門にも学び、龍門七士に数えられた。国学、神学(主として垂加神道)、歌道にも通じたほか、槍術、医学、天文、三弦、茶道の諸学、諸芸に達し、霊能力も備えていたといわれる。

系譜

                  (乙部)
           乙部次郎兵衛━━小泉岩苔
                     ┃
                     ┣━━━━━━小泉湊
                     ┃       ┃  ラフカディオ・ハーン
              小泉真種  ┏女       ┃     ┃
                ┣━━━╋女       ┣━━━━セツ
     ┏千家俊信━━━━━━清   ┗女       ┃
     ┃                       ┃
     ┃                       ┃
     ┃              塩見増右衛門━━チエ
     ┃                             ┏千家尊福
     ┃                             ┃(80代出雲国造)
     ┗千家俊秀━━━━千家尊之━━━千家尊孫━━━千家尊澄━━━┫
 (76代出雲国造) (77代出雲国造)(78代出雲国造)(79代出雲国造) ┃
                                   ┗千家尊紀
                                   (81代出雲国造)

脚注

参考文献

  • 長谷川洋二 『小泉八雲の妻』 1988年 186-193頁

関連項目

外部リンク



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