十亀賢二
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/10 22:52 UTC 版)
|
||||
---|---|---|---|---|
基本情報 | ||||
名前 | 十亀 賢二 | |||
生年月日 | 1946年11月26日 | |||
身長 | 168 cm (5 ft 6 in) | |||
体重 | 65 kg (143 lb) | |||
国籍 | ![]() |
|||
出身地 | 愛媛県 |
十亀 賢二(そがめ けんじ、1946年11月26日 - )は愛媛県出身の元プロゴルファー。
来歴
1972年の中四国オープンでは細石憲二の2位[2]、1973年の同大会では金海繁・細石・岡部洋三・上野忠美を抑えて増田光彦の2位[3]に入った。1974年の同大会では開催された松永カントリークラブのコースレコード64を樹立し、1966年の中四国選手権で内田繁が記録した67を8年ぶりに塗り替えた[4]。
1973年のブリヂストントーナメントでは初日に68をマークし、前田新作・島田幸作・安田春雄と並んでの9位タイでスタートした[5]。
1975年の中四国オープンでは冨田三十士・増田を抑えると同時に岡部と並んで上野の2位タイ[6]に入り、1978年の関西プロでは初日に陳健振(中華民国)・上田鉄弘・窪田茂・上野・藤井義将・柴田猛と並んでの4位タイ[7]でスタートした。
1980年の中四国オープンでは2日目に69をマークして上野と並んでの4位タイ[8]、3日目には2日連続69で3位[9]に上がるが、最終日にはアマチュア倉本昌弘の快挙を許す2位[10]に終わった。
1982年の静岡オープンでは初日を竹安孝博・宮本康弘・河野高明と並んでの6位タイ[11]でスタートし、2日目には青木基正・出口栄太郎・謝永郁(中華民国)と並んでの10位タイ[12]となる。
1983年にホームコースの志度カントリークラブ[13]で開催されたKSB瀬戸内海オープンでは、初日に6アンダー66の単独トップに立つなど大会を盛り上げ[1]、安田[1]・牧野裕[14]・内田[14]・藤木三郎[13]・小林富士夫[14]・杉原輝雄[1]・吉武恵治[14]・新井規矩雄[14]・金井清一[13]・高橋五月[14]、高橋勝成[1]、磯崎功・前田[15]、石井秀夫・鈴木規夫・石井裕士[16]を抑えて優勝。
最終日には、予選落ちの石井裕が、誤って後輩の石井秀のバッグを持ち帰る珍事[16]が発生する中、十亀は終盤17番まで通算5アンダーの単独トップと好調[1]を維持。最終ホールは流石に硬くなったのか、パー5で2打目をボギーで通算4アンダーとなり、大差で追いかける安田とのプレーオフで雌雄を決することになる[1]。安田は前日イーブンパー72で21位、最終組から7組も前で4アンダー68のベストスコアをマークし、通算4アンダーでホールアウト[1]。安田は上位に浮上していたが、最終組が終わるまで1時間半もあったため、帰路の飛行便を1便早めて帰宅を急いでしまい、最終組の十亀がホールアウトした時に、トップに並ぶ安田はすでに高松空港のロビーにいたのである[1]。
プレーオフが決まって関係者は安田を探していた時、すでに安田は空港にいることが判明[1]。その時に当時スポーツ紙記者であったゴルフジャーナリストの武藤一彦はプレスルームで「まずいことになった」と感じ、高松空港に事情を話し、ロビーの安田に呼び出しをかけ、できれば折り返しコースに電話を入れてくれるよう頼んだ[1]。やがて、5分もしないうちに安田からプレスルームに電話が入った。プレーオフになった旨を伝えると驚愕し、息を呑んで「どうしよう」と何回も口走った[1]。安田は「ホールアウトしたときは首位と4打差で、2位には2打差しかなかったが、5、6人がひしめき、俺の優勝なんか考えもしなかった。逆転なんて誰が見たってありっこなかった」と語り、流石に慌てて「俺、失格なの?」「それとも始末書?」「どうしたらいいの?」と矢継ぎ早に武藤に質問[1]。
プレーオフの権利を放棄することは罰則の対象ではなかったが、その後は競技委員長の増田[13]ら本部役員との話となった。結局優勝は十亀、2位に安田と決まり、プロゴルフ界では以来、優勝争いをする者は最終組がホールアウトするまでコースの外に出ない、という取り決めが常識となった[1]。表彰式で十亀はコース上空に機影を発見し、手を合わせた[17]。
同年の兵庫県オープンでは寺本一郎・川上実・一岡義典に次ぎ、奥寛・金山和雄と並んでの4位タイ[18]に入った。
1984年の富山県オープンでは初日に松本紀彦・佐野修一・天野勝・鷹巣南雄に次ぐと同時に今井昌雪・野口茂・秋富由利夫・井上幸一と並んでの6位タイ[19]でスタートし、1987年の中四国オープンでは倉本・上野に次ぐと同時に奥田靖己と並んで4位タイ[20]に入る。
1987年のKSB瀬戸内海オープンでは初日を秋富、ブレッド・オグル(オーストラリア)、高橋勝・高橋五・杉原・中尾豊健と並んでの3位タイ[21]、1988年のテーラーメイド瀬戸内海オープンでは初日を室田淳・入江勉・吉村金八と並んでの3位タイ[22]でスタートした。
1985年から松永CCでプロ・アマ・研修生により行われている「ミッドサマーオープン」[23]では1988年・1990年2位、1993年2位タイ、1994年3位タイに入った[24]。
1993年のキャスコ岡山オープンでは田中文雄と並んでの7位タイ[25]に入り、1996年のミズノオープン[26]を最後にレギュラーツアーから引退。
シニア転向後は2003年の日本シニアオープンで初日に首位の野口裕樹夫と3打差、海老原清治と並んでの2位タイ発進を決める[27]。
主な優勝
- 1983年 - KSB瀬戸内海オープン
脚注
- ^ a b c d e f g h i j k l m n プレーオフ放棄事件 安田春雄が起こしたツアー初期の珍事/残したい記録
- ^ 男子トーナメント年度別一覧表(1926年~1972年) | 日本プロゴルフ殿堂
- ^ 朝日新聞縮刷版p855 昭和48年8月25日朝刊19面
- ^ 歴史History
- ^ 朝日新聞縮刷版p63 昭和48年11月2日朝刊19面「新人熊部リード BSゴルフ」
- ^ 朝日新聞縮刷版p814 昭和50年7月26日朝刊16面
- ^ 毎日新聞縮刷版p106 昭和53年8月4日朝刊14面
- ^ 朝日新聞縮刷版p1021 昭和55年9月27日朝刊17面「青木、川田と並ぶ 関東 中四国 アマ倉本首位走る オープンゴルフ」
- ^ 朝日新聞縮刷版p1061 昭和55年9月28日朝刊17面「青木が単独首位に 関東 関西 山本、6打差リード オープンゴルフ」
- ^ 朝日新聞縮刷版p1095 昭和55年9月29日朝刊19面「五年ぶりに青木 関東 中四国 快挙、アマの倉本優勝 オープンゴルフ」
- ^ 朝日新聞縮刷版p729 昭和57年3月19日朝刊17面「湯原5アンダー首位 静岡オープン 男子プロも開幕」
- ^ 朝日新聞縮刷版p785 昭和57年3月20日朝刊「湯原、首位守る 静岡オープン」
- ^ a b c d 第 4 号 - 四国ゴルフ連盟
- ^ a b c d e f 朝日新聞縮刷版p1079 昭和58年3月28日朝刊19面
- ^ 朝日新聞縮刷版p1044 昭和58年3月27日朝刊16面
- ^ a b 最終日に消えたキャディバッグ ~ツアー初期の珍事~/残したいゴルフ記録
- ^ 【古賀敬之のゴルフあれこれ】 ゴルフにまつわる〝面白話〟第15弾
- ^ 朝日新聞縮刷版p374 昭和58年7月10日朝刊16面
- ^ 朝日新聞縮刷版p807 昭和59年7月21日朝刊17面
- ^ 中四国オープン 1987 - 日本ゴルフツアー機構 - The Official Site of JAPAN GOLF TOUR
- ^ 朝日新聞縮刷版p1204 昭和62年3月29日朝刊24面
- ^ 朝日新聞縮刷版p1131 昭和63年3月25日朝刊23面「ベテラン森初日首位に 瀬戸内海オープンゴルフ」
- ^ ミッドサマーの歴史 - 福山市
- ^ (広島西CC)145
- ^ 1993キャスコ岡山オープンゴルフ 久米カントリークラブ
- ^ 十亀 賢二選手 年度別大会成績 - 日本ゴルフツアー機構 - The Official Site of JAPAN GOLF TOUR
- ^ 十亀、2位発進-日本シニアOPゴルフ | スポーツニュース
外部リンク
- 十亀賢二のページへのリンク