医学著作
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 13:38 UTC 版)
ムワッヒド朝の宮廷医であったイブン・ルシュドは多くの医学論文を書いている。もっとも有名なのは「医学大全」(Kulliyat fit-tibb;ラテン語Colliget)であり、1153年から1169年の間に書かれ、凡そ90年後にはヘブライ語とラテン語に翻訳された。宮廷医になる前に書かれ、医学の一般的かつ不可欠な要素を抽出する求められている。七巻に分けられ、解剖学、生理学、病理学、診断、治療学、衛生学、病気の治療の各科を論じている。より広域な部分では薬理学と栄養学に及び、300の単純薬と食物について述べられている。ラテン語訳は何世紀に渡って西洋の医学の教科書となった。またガレノスの作品の要約やイブン・スィーナーの『医学の詩』についての註解を表した。 イブン・ルシュドは解剖学に大きく興味を示し「解剖の実践は信仰を強める」と言い、人体について「神の驚くべき技」という見解を述べた。神経学においてパーキンソン病の存在を示唆し、網膜に光受容体を帰属せしめた。脳卒中の研究において東ローマ時代のガレノス派の医師の単純なモデルを詳細な分類に置き換え、アッ・ラーズィーやイブン・スィーナーの研究を補完し、脳血管に基づく病因を提示した。生殖器科では勃起不全の問題を特定し、治療のために薬物療法を処方した最初の一人である。この治療のためにいくつからの方法を使用した。殆どが経口薬であったが一部では経尿道的手段が採られた。また1世紀の医師アンドロマコスが開発したと言われる蛇毒の解毒剤テリアカに関しての研究を行った。 友人である臨床医イブン・ズフルに依頼し、身体の諸部分についての治療についての医書を書いてもらい、それを『治療と管理についての簡便の書』(Kitab al-Taysir fi 'l-muddawat wa 'l-tadbir)と呼んだ。これは『医学大全』と合わさって包括的な医学的教科書となりヨーロッパでは18世紀まで教えられた。
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