勘解由小路資善
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勘解由小路 資善(かでのこうじ すけよし、安永7年5月28日(1778年6月22日) - 嘉永元年11月25日(1848年12月20日))は、江戸時代後期の公卿。
経歴
学問に優れた人物で、東坊城聡長の推挙により仁孝天皇の御前講義の講師を務めることになり[1]、天保7年(1838年)以降、伊藤東涯の『論語古義』『孟子古義』の講義を担当している[2]。また、前述の聡長が関白鷹司政通から天皇が進める新しい学校機関(後の学習院)設立構想の御用掛に任じられた際に、(自分と同じ)菅原氏や清原氏に人々に適任者がいないため、老練で学識もある資善が相役にすることを条件に引き受けている[1]。仁孝天皇崩御後の諡号選定においては、本来の役目である東坊城聡長ら菅原氏の公卿に加えて、天皇に近く学問を良くしたことを理由に資善と日野資愛も諡号案選定に加えられた[3]。
官歴
- 天明2年(1782年):従五位下
- 寛政2年(1790年):従五位上、左京権大夫
- 寛政6年(1794年):正五位下、中宮少進
- 寛政10年(1798年):従四位下
- 享和2年(1802年):従四位上
- 文化2年(1805年):正四位下
- 文化6年(1809年):権右中弁、従三位
- 文化7年(1810年):踏歌外弁
- 文化11年(1814年):正三位
- 文政10年(1827年):従二位、参議
- 天保元年(1831年):東照宮奉幣使
- 天保13年(1842年):権中納言
- 弘化元年(1844年):正二位
- 弘化4年(1847年):権大納言
系譜
脚注
- ^ a b 金炯辰『近世後期の朝廷運営と朝幕関係-関白鷹司政通と学問のネットワーク-』東京大学出版会、2025年、278-279頁。ISBN 978-4-13-026615-4。
- ^ 金炯辰『近世後期の朝廷運営と朝幕関係-関白鷹司政通と学問のネットワーク-』東京大学出版会、2025年、167-168頁。 ISBN 978-4-13-026615-4。
- ^ 金炯辰『近世後期の朝廷運営と朝幕関係-関白鷹司政通と学問のネットワーク-』東京大学出版会、2025年、174・225・238頁。 ISBN 978-4-13-026615-4。
出典
- 坂本武雄『公卿辞典』七丈書院、1944年。
- 黒板勝美『公卿補任』吉川弘文館、2000年。
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