加藤眞
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/06 16:46 UTC 版)
かとう しん 加藤 眞 | |
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生年月日 | 1941年12月13日(83歳) |
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出身地 | ![]() |
学歴 | 日本大学理工学部工業経営部卒業 |
職業 | 実業家、レーシングカーデザイナー |
ジャンル | モータースポーツ |
父 | 加藤誠之 - 元トヨタ自動車会長 |
加藤 眞(かとう しん、1941年12月13日 - )は、日本の実業家、エンジン技術者、レーシングカーデザイナーである。
株式会社サードの会長兼社長、株式会社シグマオートモーティブ会長、株式会社シグマ商事会長。父はトヨタ自動車販売社長加藤誠之。
概要
1965年日本大学理工学部工業経営学科(現・生産工学部)[2]を卒業し、この当時父
日本人として初となる1973年のル・マン24時間レースにはトヨタのエンジンを前提としてエントリーしたが突然入手できなくなり、石原慎太郎(当時衆議院議員)を介して松田耕平(当時マツダの社長)を紹介してもらい、マツダオート東京チューンのワークス用エンジン2基を50万円で借り受け、富士グランチャンピオンレース用の自動車を改造したシグマ・MC73に搭載して参戦、この時はトランスミッショントラブルでリタイヤとなったもののトランスミッションの緊急手配を通じてマツダオート東京の大橋孝至と知り合った[2]。
1974年のル・マン24時間レースには、富士グランチャンピオンレース用自動車の改造では限界があると感じ、グラウンド・エフェクト・カー[注釈 2]であるシグマ・MC74を新造した[2]。その際加藤はエンジンの専門家ではあってもレースの専門家ではなかったので、大橋にチームの運営を依頼、ル・マンに引き入れたことが、日本のル・マンブームの原点ともなった[2]。この時は24時間持たせるために徹底的に補強し100 kgも重くなった[2]。周回数は155周に過ぎず正式な完走扱いにはならなかったが、最後まで走行した[2]。
1975年のル・マン24時間レースには自らチューンしたトヨタ・2TG型ターボエンジンを搭載したシグマ・MC75で参戦、序盤こそ10位前後を走る健闘を見せたが油圧が低下し2時間以上に渡り修理したがトラブルが再発、リタイヤとなった[2]。「3回の挑戦でカネを使い果たした。借金をしてまで続ける気はなかった」とその後当分加藤の名前はレース界から消えた[2]。
1985年にサードを設立[1]してレース界に復帰した。
開発車両
レーシングカー
スポーツカー
- サード・MC8
船舶
- Cleaver21
- Cleaver23
飛行機
関連項目
- ローランド・ラッツェンバーガー - 来日時、静岡県にある加藤家所有のペンションを活動拠点としており、息子のように面倒を見た。ザルツブルグでの葬儀にも参列した[3]。
注釈
出典
参考文献
- 黒井尚志『ル・マン 偉大なる草レースの挑戦者たち』集英社、1992年。ISBN 4-08-780158-6。
加藤真
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引退 | |
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ポジション | フォワード |
役職 | アカデミーディレクター |
兼務 | アカデミーメインインストラクター |
基本情報 | |
愛称 | "マコト"[1] |
国籍 |
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生年月日 | 1982年4月12日(43歳) |
出身地 | 宮城県玉造郡鳴子町 |
身長(現役時) | 192cm (6 ft 4 in)[2] |
体重(現役時) | 88kg (194 lb)[2] |
キャリア情報 | |
ドラフト | bjリーグ2009年新人ドラフト 1巡目(全体3位) |
選手経歴 | |
2005-2007 2007-2009 2009-2012 2012-2013 2015- |
日立電線 レラカムイ北海道 富山グラウジーズ 秋田ノーザンハピネッツ DEFEATER |
指導者経歴 | |
2014-2015 2015-2017 2015- |
東北生活文化大学高等学校(asst) 東北学院高等学校(asst) 89ERSアカデミー |
加藤 真(かとう まこと、1982年4月12日 - )は、日本のバスケットボール選手である。宮城県玉造郡鳴子町(後の大崎市)出身。2005年、日本リーグ2部の日立電線ブルドッグスに入団し、得点王、ルーキー・オブ・ザ・イヤー、ベスト5を獲得。その後JBLのレラカムイ北海道、bjリーグの富山グラウジーズ、秋田ノーザンハピネッツでプレイし、2013年に引退した。ポジションは、日立電線ではセンターとパワーフォワード、北海道ではガード/フォワード、富山ではシューティングガード、秋田ではフォワードだった。
来歴
小学4年の時にバスケットボールを始めた[1]。東北学院高校では2000年とやま国体少年男子に宮城県選抜チームで出場し全国制覇[3]。翌年、地元で開かれた新世紀・みやぎ国体には青年男子チームで出場し、これも優勝した[3]。大学は関東強豪校の誘いを断って地元の東北学院大学へ進み、1年生からレギュラーに定着。全日本ジュニア代表候補、学生日本代表候補に選ばれたこともある。
大学卒業後、日立電線ブルドッグスへ入団した。日立電線では主にセンターとして出場し、初年度の準優勝に貢献。加藤は得点王、ルーキー・オブ・ザ・イヤー、ベストファイブのタイトルを獲得した[4]。
2007年にレラカムイ北海道に移籍。ここで身長の問題もあってポジションをガードに変えアウトサイドプレイヤーに転向したが[4]、2007年-08年は1試合平均得点が2.23点[5]、翌2008年-09年シーズンは1点に留まり[6]、2009年に退団。同年、bjリーグの新人ドラフトを経て富山グラウジーズに移籍する。
富山では、加入初年度の2009-2010シーズンには週間MVPを獲得するなど活躍[7]、翌2010-2011シーズンにはキャプテンに就任し[8]、出場時間は1,176分を数えた[2]。しかし2011-2012シーズンに入ると出場時間282分と出場機会を減らし[4]、シーズン終了後のエクスパンション・ドラフト時にもプロテクトされなかった。結果、新規参入する東京サンレーヴスにドラフト指名され、直後に東京との金銭トレードで秋田ノーザンハピネッツに移籍することとなった[9]。
秋田では日立電線時代のインサイドでの競技経験を買われてフォワードとして起用され、2012年12月2日の新潟アルビレックスBB戦では21得点を挙げた[10]。シーズン終盤もセンターのアンソニー・ケントを怪我で欠く中インサイドを支え、チームのプレイオフ出場に貢献した[4]。
シーズン終了後の2013年5月、加藤本人の希望により、プロ選手から引退した[11]。
宮城県の3x3チーム『DEFEATER』に所属していた[12][13]。
2015年から仙台89ERSのアカデミーコーチ、U18ヘッドコーチなどを務める。
脚注
- ^ a b “#14 加藤 真 Makoto Kato”. 富山グラウジーズ (2009年6月20日). 2013年6月27日閲覧。
- ^ a b c 『bjリーグオフィシャルガイドブック 2012-2013』日本プロバスケットボールリーグ、2012年10月6日。
- ^ a b 『選手契約(新規)合意のお知らせ』(プレスリリース)富山グラウジーズ、2009年7月14日 。2013年6月28日閲覧。
- ^ a b c d 「2012-2013シーズン ゲームプログラム復刻改訂版」『ハピネッツタイムズ』第3巻、秋田ノーザンハピネッツ、2013年6月、18頁。
- ^ “個人スタッツ 2007-2008”. JBL. 2013年6月28日閲覧。
- ^ “個人スタッツ 2008-2009”. JBL. 2013年6月28日閲覧。
- ^ “サークルKサンクス週間MVPは富山・加藤選手”. bjリーグ (2010年2月10日). 2013年6月28日閲覧。
- ^ 『2010-2011シーズン 富山グラウジーズ キャプテン決定』(プレスリリース)富山グラウジーズ、2010年7月20日 。2013年6月28日閲覧。
- ^ 『加藤選手 契約に関して』(プレスリリース)富山グラウジーズ、2012年6月25日 。2013年6月28日閲覧。
- ^ “NH、新潟に競り勝つ”. 秋田魁新報. (2012年12月3日)
- ^ 『【#14加藤真選手】契約満了および選手引退のお知らせ』(プレスリリース)2013年5月25日 。2013年6月28日閲覧。
- ^ DEFEATER:MAKOTO - SOMECITY SENDAI - ストリートボールリーグ 「SOMECITY」| 3on3形式のストリートバスケリーグ
- ^ 参加チーム OPEN男子 | 第1回 3x3日本選手権大会
外部リンク
固有名詞の分類
- 加藤・真のページへのリンク