創設者 米田吉盛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 12:25 UTC 版)
創設者である米田吉盛は、翼賛選挙において非推薦で当選し、終戦の翌年の総選挙(落選)では「私のすべての政策は如上の天皇制擁護と国民協同自治の理念から出発する」 とし、天皇制擁護と国民協同自治の理論を提唱、経済的に窮地に立つ農村は安い肥料で支え、中小企業の振興等の政策を提唱し、また戦後日本の教育を考え衆議院文教委員会で活躍した人物として知られる。保守中道の政治家であり、1957年の岸信介内閣改造に伴い厚生政務次官に就任している。横濱専門学校創設の際の教員集めでは、林頼三郎や太田哲三の紹介する人物に対して三顧の礼をもってあたった。建学にあたっては徹底した実学主義と、大量教育の排除(マスプロ教育を排除してゼミナールによる少人数教育を推進)を目指し、1950年のヨーロッパ視察でイギリスの教育制度に学びケンブリッジ大学やオックスフォード大学の例に鑑み、寮制度を充実をさせチューター (tutor)システム・カレッジを構想し、中山校地を取得したが、学生運動による退陣を以て頓挫した。
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