創業者キャニオンの追放
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 06:50 UTC 版)
「コンパック」の記事における「創業者キャニオンの追放」の解説
北米部門のトップとなっていたマイケル・スウェブリーが1991年7月12日に引退すると、エッカード・ファイファー(英語版)が後を引き継いだ。ファイファーはまたCOO(最高経営執行者)にも就任。ファイファーはテキサス・インスツルメンツから転職し、ヨーロッパやアジアでの事業基盤を一から構築した。ヨーロッパ支社設立資金として渡されたのは2万ドルで、ファイファーは1984年、コンパック初の海外オフィスをミュンヘンに開設した。1990年にはヨーロッパ支社の売り上げは20億ドルとなり、コンパック全体の54%を占めるようになった。 同じ1991年、会長のベン・ローゼンは創業者の1人で社長兼CEOのロッド・キャニオンを解任し、ファイファーを社長兼CEOに就任させた。デル、ASTリサーチ、ゲイトウェイといったライバルの低価格路線に追随できず、コンパックとして初の赤字(四半期で7100万ドル)を計上した責任をとらされた形である。あるアナリストは「コンパックは過去1年半の間に多くの戦術的過ちを犯した。彼らは流行仕掛け人だったはずなのに、今はもたもたしている」と述べた。 ローゼンとキャニオンは、低価格なアジア製PCへの対抗策で合意できなかった。キャニオンは社内で低価格PCを作ることを主張したが、ローゼンは部品供給業者から標準の部品を購入して素早く市場に低価格PCを投入すべきだと考えていた。キャニオンは18カ月で低価格PC生産ラインを構築する計画を立てたが、ローゼンはキャニオンには知らせずにCOMDEXに技術者チームを派遣し、キャニオンの計画の半分の期間でもっと低価格なPCを生産できるという事実を知った。さらにキャニオンの合意を得ながら進めていく経営スタイルは、市場への反応を遅くすると思われていた。一方ファイファーの独裁的スタイルは価格競争には向いていた。ローゼンは14時間の取締役会を開催し、キャニオンには知らせずにファイファーへの数時間に及ぶインタビューを行った。結果として、取締役会の総意としてファイファーが選ばれた。 キャニオンはコンパックの取締役として残留する申し出を断わった。1999年、キャニオンは自身の追放劇について「私は燃え尽きていた。私は去る必要があった。彼(ローゼン)は私に強い切迫感がないと思っていた」と述べた。キャニオン追放の2週間後、創業者の1人ジム・ハリスを含む5人の重役が辞任した。これは、早期退職勧告や急な降格の結果である。
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