創業者フランソワ・ビュリエ
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「クロズリー・デ・リラ」の記事における「創業者フランソワ・ビュリエ」の解説
クロズリー・デ・リラは、フランソワ・ビュリエが、1847年にパリ6区の旧アンフェール通りのカルトジオ会の修道院跡の庭の一画に建てられたダンスホール「グランド・シャルトルーズ」(「グランド・シャルトルーズ」参照)を買い取って創設したカフェである。 「クロズリー (closerie)」はもともと小規模な農地(畑)、特に柵や生垣で囲まれ、住居も含む農地の意味であり、狭義には小規模な葡萄畑を指すこともあるが、後に、パリでは、娯楽施設を含む敷地を表わすようになった。 「クロズリー・デ・リラ」は、フレデリック・スリエの五幕劇『クロズリー・デ・ジュネ(エニシダの畑、Closerie des Genêts)』に因む名前であり、創業者のビュリエがこの庭に約1,000株のリラ(ライラック)の木を植え、「リラの畑」を意味する「クロズリー・デ・リラ」と名付けた。ビュリエは、(アカデミー・ドゥ・ラ・グランド・ショーミエールの所在地として知られる)6区のグランド=ショーミエール通り(フランス語版)にあったダンスホール「グランド=ショーミエール(フランス語版)」(1788-1853)の従業員で、1843年からシテ島のダンスホール「プラド」の経営者となり、クロズリー・デ・リラ創業の翌1848年には、パリ5区ヴァル=ド=グラース地区(フランス語版)にダンスホール「バル・ビュリエ(フランス語版)」を創設した。このダンスホールは、サマセット・モームの『人間の絆』やアルフォンス・ドーデの『タルタラン・ド・タラスコンの大冒険』などにも描かれ、夫のロベール・ドローネーとともにこのダンスホールに通っていた画家ソニア・ドローネー(フランス語版)は1913年に《バル・ビュリエ》と題する抽象画を発表している。 クロズリー・デ・リラは、北アフリカ風・イスラム風の斬新な内装が特徴であった。ビュリエの他のダンスホールと同様に深夜まで(当時流行した)カドリーユを踊ることができる庭があり、ビリヤード室も備えているなど、流行の娯楽施設であった。
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