処遇と影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 03:19 UTC 版)
「サン=フェリペ号事件」の記事における「処遇と影響」の解説
長盛は都に戻り、このことが秀吉に報告された。直後の同年12月8日に天正に続く禁教令が再び出され、京都や大坂にいたフランシスコ会のペトロ・バウチスタなど宣教師3人と修道士3人、および日本人信徒20人が捕らえられ、彼らは長崎に送られて慶長元年12月19日(1597年2月5日)処刑された(日本二十六聖人)。 ランデーチョは、修繕のための船普請を早期に開始するよう秀吉に直接会って抗議しようと決めた。長宗我部元親は12月にランデーチョらが都に上ることを許可した。しかし交渉の仲介を頼もうとしたフランシスコ会は捕縛された後であったため、船員たち自身で抗議を重ね、秀吉の許可によりサン=フェリペ号の修繕は開始された。一同は1597年4月に浦戸を出航し、5月にマニラに到着した。マニラではスペイン政府によって本事件の詳細な調査が行われ、船長のランデーチョらは証人として喚問された。その後、1597年9月にスペイン使節としてマニラからドン・ルイス・ナバレテらが秀吉の元へ送られ、サン=フェリペ号の積荷の返還と二十六聖人殉教での宣教師らの遺体の引渡しを求めたが、引き渡しは行われなかった。 サン=フェリペ号から没収された積荷(60万ペソ、ガレオン船1隻の平均的建造費は7万8000ペソのためガレオン船8隻に相当)の一部は、朝鮮出兵の資金として使われ、残りは有力者に分配され、中には天皇に届いたものもあったとされる。 この事件には、秀吉の対明外交、イエズス会とフランシスコ会の対立などいくつかの問題が関係しており、その真相を決定的に解明するのは難しい。
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