再デビューまでの苦難
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/29 20:23 UTC 版)
「ジャッキー・チェン」の記事における「再デビューまでの苦難」の解説
1973年に「ついに自分もスターになるチャンスがきた」と、意気揚々と初主演作『廣東小老虎』 (1973年)の撮影に臨んだジャッキーだったが、そのあまりの低予算、悪条件ぶりに愕然とする。この作品はいわゆるセブンデイズ映画と言われる類の作品で、わずか7日間で完成させてしまうような粗末な現場だった。大きく落ち込む彼にさらに追い打ちをかけるようにショッキングなニュースが飛び込んで来た。それは“ブルース・リー急死”の報だった。偉大なスターのあまりにも早過ぎる死だった。この香港映画界を揺るがす悲報に香港全体が大きな喪失感に包まれた。ジャッキーもスタントに参加したブルース・リーの遺作『燃えよドラゴン』はリーの死後、世界各地で公開され大ヒットを記録。世界的なスーパースターへと上り詰めたとき、リーはもうこの世にいなかった。そしてカンフー映画市場は急激に冷え込み、冬の時代へと突入してゆく。時代はコメディやロマンスといったドラマが中心となり本格的なクンフー映画の本数は激減していた。 貯めたお金を切り崩しながら数ヵ月を過ごした後、かつて世話になったジュー・ムー監督からやっとのことで仕事をもらった。その1作目の『花飛満城春』では人妻と関係を持つ人力車夫役を演じ、ベッドシーンを披露した。2作目の『拍案驚奇』には殺人犯役で出演。ともにアダルトな作品で映画自体はまずまずヒットしたものの、ジャッキーにとっては仕事を得るのが難しい状態が続いた。 1975年にゴールデン・ハーベストへ入社し、ゴールデン・ハーベストでのサモ・ハンの仕事がまた増えてきたが、本格的なアクションと呼べる作品は少なかった。その頃に製作された数少ないクンフー映画が『少林門』(1975年)だった。監督は当時まだ無名で、のちにハリウッドで活躍する、若き日のジョン・ウーだった。当初は出演予定がなかったジャッキーも準主役で出ることになった。この作品は撮影から約一年後の1976年夏に香港で公開されたが、ヒットせずに終わった。
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