共同存在と「ひと」とは? わかりやすく解説

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共同存在と「ひと」

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 21:10 UTC 版)

存在と時間」の記事における「共同存在と「ひと」」の解説

「『われわれ』は世界中に『いる』」という「現象」において、「いる、われわれ」とは一体何者であるか? 客体存在用具存在加えて現存在第三様態として「共同存在」(mitsein)があり、これが現存在本質となる。他者とは、孤立して存在する単一主体「私」除いたすべての人びとのことではなく、たいていの場合はひとが自分自身とは区別していない(ともにある)人びとのことである。例えば、「私」作物踏み潰した土を踏み固めてしまわないよう注意しながら畑の周りを歩くとき、この畑は「私」にとって道具的なものであるが、同時に誰か」の所有地として、あるいは「誰か」に手入れされている(他の「誰かにとっても道具的である)ものとしても現れる。この「誰か」たる農夫は、「私」思考のうちでその畑に付け加えたものではない。なぜなら、畑が耕され手入れされているという事実を通してすでに農夫は自らを現しいるからである。このようにしてわれわれは世界内において他者出会うのであり、またこうして現存在他者出会いともにある存在の仕方が「共同存在」であるとハイデッガー述べる。 「共同存在」には好ましからぬ側面もあり、ハイデッガーは「世間(ひと、世人)」という語を用いてそれに言及する。つまりニュースゴシップでしばしば見られるように、「世間では~といわれている」というとき、一般化し断定したり、一切コンテクスト無視してそれをやり過ごそうとしたりする傾向があるということである。何が信頼値し何が信頼値しないのかという実存的概念が「世間」という考え依拠して求められるのである。たんに群集のあとを追って他の人々に習うだけでは何の妥当性保証されないし、社会的歴史的状況から完全にかけ離れたことが妥当なことだとみなすことなどできないにもかかわらず、「世間」がその平均性のみを妥当なものとして指示するのである第1部第4章26 - 27節)。

※この「共同存在と「ひと」」の解説は、「存在と時間」の解説の一部です。
「共同存在と「ひと」」を含む「存在と時間」の記事については、「存在と時間」の概要を参照ください。

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