入山から登頂まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/11 05:50 UTC 版)
「愛知大学山岳部薬師岳遭難事故」の記事における「入山から登頂まで」の解説
愛知大学山岳部パーティー13名は、1962年12月25日から翌1963年1月6日までの行程で、富山県大山町(現富山市)折立から薬師岳の登頂に挑んだ。目的は、準極地法の訓練も兼ねたものであったという。12月31日には、太郎小屋(現在の太郎平小屋)に到着。途中、同じく薬師岳への登頂を目指す日本歯科大学山岳部のパーティーと行動が重なり、以降、登頂直前まで愛知大学パーティーの行動が目撃されることとなる。 1月1日は昭和38年1月豪雪によって悪天候となり、両大学とも小屋に足止めとなったが、翌2日は早朝から愛知大学のパーティーが移動を開始。山頂までのルートの途中でキャンプ(C3)の設営を行った。設営中、小屋を遅く出発した日本歯科大学パーティーがキャンプの横を通り過ぎると、愛知大学パーティーも再び登頂を再開。頂上まで300m程度の地点で、先行する日本歯科大学パーティーに追いついて来た。この際、日本歯科大学パーティーが目撃した愛知大学側の装備は、1人がザックを背負うのみで残りのメンバーは軽装備といった状況であった(極地法の訓練と言うよりは、むしろアルパインスタイルに近い装備、行動である)。しかしこの直後、天候が急激に悪化し、視界が効かない猛吹雪になり両パーティーは相互の場所を見失う。日本歯科大学パーティーは、何とか山頂にたどり着き愛知大学パーティーを待ったが、登頂してこなかったことから下山を開始。途中、愛知大学が設営していたキャンプ(C3)を確認したが、入り口が外側からザイルで縛ってあり、立ち寄った形跡は見られなかった。日本歯科大学パーティーは、悪天候の中を太郎小屋へ戻り、天候が回復した1月4日に下山を開始した。
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