党の成熟
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/13 06:45 UTC 版)
SDFやその分派である社会主義労働党、イギリス社会党とは対照的に、ILPは新参者を比較的容易に惹き付ける傾向にあった。 ヴィクター・グレイソンは1906年、特定の政治問題に触れる事無く、「信仰復興運動のように」キャンペーンを行った事を誇らしげに回想。後に議長を務めるフェンナー・ブロックウェイも後年、1907年に開かれたILPの地方支部の集会の様子について、次のように述べている。 日曜日の夜になると、集会が労働教会運動のような様相を呈していた。我々はボランティアでちょっとしたオーケストラを組み、労働歌や演説が殆ど福音主義的で、不正義を告発する気概に溢れ、新たな社会への期待を抱かせる物であった。 社会主義を人道的に必要と位置付ける事で、ある種の世俗宗教なり、日常生活にキリスト教を適用する手段として用いられる一方で、非論理的であるが故に相当浅薄になるという、重大な弱点を抱えていた。 歴史家のジョン・キャラハンは社会主義がハーディ、グレーシャー、スノーデンやマクドナルドの手に掛かると、「不正義に対して漠然とした抗議」しかしないようになったという。 その後、ILPと労働党との関係はゴタゴタが続く。労働党が社会改良に及び腰であったり、結党から数年で社会主義的なビジョンから距離を置くようになったと見做すILPの党員は多かったのである。1912年 にはILPの多くの支部がヘンリー・ハインドマン率いるSDFとの合流を選択し、イギリス社会党を設立。
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