元の日本攻撃(文永の役、弘安の役)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 23:08 UTC 版)
「日朝関係史」の記事における「元の日本攻撃(文永の役、弘安の役)」の解説
元に服属した高麗は、日本へ元の国書を送るなど外交交渉を担当した。高麗の使者から国書を受け取った鎌倉幕府は、返書を送らないことを決定する。18歳の北条時宗が幕府執権となるが、さらに強硬な使者の来訪にも幕府は返書をせずに元の攻撃への対策を進め、元軍による攻撃が行われた。元軍は高麗人のほかに南宋人や女真人も含む多民族構成で、壱岐・対馬や博多において九州の御家人を中心とする鎌倉幕府軍と戦った。元軍の侵略は2回に渡って行われたが、2回とも日本の抵抗により九州への上陸は阻まれて季節的な暴風に襲われて壊滅した。日本の捕虜となった元・高麗軍の兵は、日宋貿易で交流があった南宋人は優先して助命されたが、モンゴル人、高麗人、女真人については処分が決まるまで各御家人に預けられた。元・高麗軍の捕虜は奴隷にされた他に、職能のある者は軍事技術者や大般若経の筆写事業などに採用されて、富豪になった者もいた。弘安の役の11年後に高麗使節の金有成が来訪し、高麗人の捕虜が日本で生きている点について感謝する国書を送っている。
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