信頼の登場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 02:39 UTC 版)
そこで後白河は、武蔵守・藤原信頼を抜擢する。信頼は保元2年(1157年)3月に右近権中将になると、10月に蔵人頭、翌年2月に参議・皇后宮権亮、8月に権中納言、11月に検非違使別当と急速に昇進する。もともと信頼の一門は武蔵国・陸奥国を知行国としており、両国と深いつながりを持つ源義朝と連携していた。久寿2年(1155年)8月に源義平(義朝の長男)が叔父の源義賢を滅ぼした武蔵国においても、武蔵守であった信頼の支援があったと推測される。保元3年(1158年)8月に後白河院庁が開設されると、信頼は院の軍馬を管理する厩別当に就任する。義朝は宮中の軍馬を管理する左馬頭であり、両者の同盟関係はさらに強固となった。義朝の武力という切り札を得た信頼は、自らの妹と摂関家の嫡子・近衛基実の婚姻も実現させる。摂関家は保元の乱によって藤原忠実の知行国・頼長の所領が没収された上に、家人として荘園管理の武力を担っていた源為義らが処刑されたことで各地の荘園で紛争が激化するなど、その勢力を大きく後退させていた。混乱の収拾のためには代替の武力が必要であり、義朝と密接なつながりのある信頼との提携もやむを得ないことであった。後白河の近臣としては他にも、藤原成親(藤原家成の三男)や源師仲が加わり院政派の陣容も整えられた。
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